ホーム >> ハンドメイド横丁 >> アーメット・アーティガンの偉大なる功績
アーメット・アーティガンの偉大なる功績 / 印南敦史
アーメット・アーティガンの偉大なる功績

アーメット・アーティガンの名を聞いてピンとくる知る人は、かなりの音楽通じゃないかと思う。逆にいえば、たとえ音楽が好きでも知っている人はそれほど多くないだろうってこと。なぜって、彼は目立つ場所で派手に立ちまわっていたわけではないからだ。アトランティック・レコーズの創設者であり、アメリカン・ミュージックに多大な功績を残した人物。とはいえミュージシャンじゃないし、基本的には裏方の人と考えるのが妥当だ。


にもかかわらず、世のなかの大半の人は彼のことを間接的に知っている。少なくともこのサイトを見ていらっしゃる方なら、もう確実に彼の恩恵を受けている。理由は明瞭。彼のおかげで成功したアーティストの数といったら、それこそ10や20じゃないからだ。だから気づかないだけで、もしかしたら彼の息がかかったレコードやCDが棚のなかに隠れているかもしれないよ。

「と言われても、やっぱりピンとこないすよ」
だったら、すぐに「ああ、あの人か」と思えるに違いない作品の話をしよう。ジェイミー・フォックスの迫真の演技も印象的で、第77回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、監督賞を受賞した『Ray(レイ)』だ。いうまでもなく、リズム&ブルースの遺産ことレイ・チャールズの生涯を追った物語。レイ・チャールズやリズム&ブルースに詳しくない人にもわかりやすい内容だったので、記憶に残っている人も多いのではないだろうか。僕も二度観て二度泣きました。

で、あの作品中、スタジオでレイとやりとりをする頭の禿げた男性が出てきましたよね。長すぎる「What’d I Say」をどうやってレコードに収録しようかとみんなで話し合っている際、「A面とB面に分けたらどうか」というエンジニアのアイデアに対して「やろう(Let’s do it.)」と答えた人物だ。つまり、あれがアーメット。ドキュメンタリー作品DVD『アトランティック・レコード:60年の軌跡』のなかで彼は「似ていなかったね。服装に関してもあんな格好をしたことはない」と若干の不快感を示していたけれど、それでも彼の容姿を知る人ならあの場面を見た瞬間にニヤッとしたはずだ。

アーメット・アーティガンの偉大なる功績

1923年7月31日、トルコ・イスタンブール生まれ。父親のムニール・アーティガンが駐米トルコ大使だったためにスイス、パリ、ロンドン、ワシントンDCで幼少時代を過ごした。いわば各地の空気を吸いながら、その過程で音楽にのめり込んだわけだ。どの程度ののめり込み具合だったかについては『アトランティック・レコード:60年の軌跡』に詳しいが、1万5000枚を越えるジャズのSP盤を所有するレコード・コレクターだったというからハンパない。そればかりかワシントンDC時代には、兄のネスヒとともに“白人のための黒人音楽コンサート”を開催したりもしたらしい。差別されにくい環境にいたとはいっても、まだまだ黒人差別がまかり通っていた時代のこと。なかなかできることではないとは思いませんか?
しかし、それはともかく彼は父親の死後、一大決心をしたのだった。「卒業して外務大臣になる道もある」という兄の説得に応じずにジョージタウン大学を中退し、“黒人音楽を発信するレコード会社をつくりたい”という夢に向かって歩を進めたのだ。


しかし、それはともかく彼は父親の死後、一大決心をしたのだった。「卒業して外務大臣になる道もある」という兄の説得に応じずにジョージタウン大学を中退し、“黒人音楽を発信するレコード会社をつくりたい”という夢に向かって歩を進めたのだ。

かくして知人の歯科医から1万ドルを借り受け、ハーブ・エイブラムソンとともにインディー・レーベルのアトランティック・レコーズを創設したのが1947 年のこと。アーティスト契約からプロデュース、作曲までを自ら手がけていたというから驚きだが(初期のシングルに見られる作曲者名“Nugetre”は、アーティガンの文字を後ろから綴ったもの)、かくしてアトランティックは有力なR&B/ジャズ・レーベルとして急成長したのだった。

アーメット・アーティガンの偉大なる功績

レイ・チャールズビッグ・ジョー・ターナールース・ブラウンクローヴァーズ、ジョン・コルトレーン、ソロモン・バークなど、彼のおかげで成功した黒人アーティストは数多い。しかも彼とアトランティックはアーティストと遠い距離にあるただの雇い主ではなく、制作に関与し、アーティストと同じ釜の飯を食う同胞だった。『Ray(レイ)』にはレイ・チャールズが「さすがアトランティック」と喜ぶシーンも出てくるけれど、つまりはそんな彼らのあり方があの映画では再現されていたというわけだ。
とはいえ当然のことながら、レーベルの発展はアーメットひとりによってなされたわけではない。彼は情熱とビジネス・センスを併せ持った男だったが、その才能を後押しする人材に恵まれてもいたのだ。共同設立者のハーブ・エイブラムソンや兄のネスヒもさることながら、ソングライター・チームのリーバー&ストーラー、名エンジニアとして数々の作品を手がけたトム・ダウド、プロデューサーのフィル・スペクターやアリフ・マーディンなどなど、(それぞれ時代は前後するとはいえ)音楽史に残る重鎮がパートナーだった。


とはいえ当然のことながら、レーベルの発展はアーメットひとりによってなされたわけではない。彼は情熱とビジネス・センスを併せ持った男だったが、その才能を後押しする人材に恵まれてもいたのだ。共同設立者のハーブ・エイブラムソンや兄のネスヒもさることながら、ソングライター・チームのリーバー&ストーラー、名エンジニアとして数々の作品を手がけたトム・ダウド、プロデューサーのフィル・スペクターやアリフ・マーディンなどなど、(それぞれ時代は前後するとはいえ)音楽史に残る重鎮がパートナーだった。

なかでも大きく貢献したのは、ハーブ・エイブラムソンが陸軍に招集されて経営から離れた1953年に招き入れられた元『ビルボード』誌記者、ジェリー・ウェクスラーだ。アトランティックはこののち、白人シンガーのボビー・ダーリンを売り出して新たな市場を開拓し、ソングライターのジェリー・リーバー&マイク・ストーラーを迎え、そのポップ・センスによってコースターズドリフターズベン・E・キングなどを成功させていた。しかし、この路線に抵抗感を抱いていたウェクスラーは頑として黒人音楽にこだわり続け、メンフィスのソウル・レーベルであるスタックスを獲得したのである。そして結果としてアトランティックは、サム&デイヴオーティス・レディングウィルソン・ピケットアレサ・フランクリンブッカー・T&ザ・MGsなどの逸材をも次々と生み出すことになるのだ。同じリズム&ブルースの基盤を持ちながら、かたやビジネスマンで、かたや職人気質。なかなかいいコンビだったんじゃないかと思う。

アーメット・アーティガンの偉大なる功績

そして60年代、アーメットは次なるチャレンジに出た。イギリスでエリック・クラプトンレッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズなど、ブルースを熟知したブリティッシュ・アーティストを、さらにはアメリカ西海岸でバッファロー・スプリングフィールドCS&Nなどのロック・アーティストを次々と獲得したのである。いかにも彼らしい嗅覚という気がするし、これはこれで意義のある行動だった。が、残念ながらそれで経営が安定したというわけではなかった。それどころか、1967年にはワーナーの傘下に入ることになったのである。
大手に吸収されるということは、インディペンデント・レーベルにとっては必ずしもプラス要因ではないはずだ。親会社の意向に添わねばならない部分も少なくないだろうし、なによりそれまでの自由な精神が失われかねないのだから。


大手に吸収されるということは、インディペンデント・レーベルにとっては必ずしもプラス要因ではないはずだ。親会社の意向に添わねばならない部分も少なくないだろうし、なによりそれまでの自由な精神が失われかねないのだから。

しかし、そもそもアーメットはマイナス要因さえもプラスへ転化してしまう性格の持ち主だった。ロック縲怎|ップのマーケットに可能性を見出していた彼は、以後もジャンルの枠に捕われることなく数々のアーティストを世に送り出し、クロス・オーヴァーな成功を収めることになったのだ。

余談ながら、70年代のワーナー・サウンドを浴びて育った僕個人としてもこの時代の彼の功績については感じるところが多い。ディープ・パープルのようなハード・ロック・バンドからエマーソン・レイク&パーマーのようなプログレッシヴ・ロック系、リンダ・ロンシュタットや、そのバック・バンドからスタートしたイーグルス、あるいはジェイムス・テイラードゥービー・ブラザーズなどのウェスト・コースト・ロック勢、さらにはジョニ・ミッチェルライ・クーダーリトル・フィートグレイトフル・デッドタワー・オブ・パワーに至るアメリカの偉人たち、黒人音楽の枠を越えて成功を収めたロバータ・フラック ダニー・ハサウェイなどなど、あのころ好んで聴いていた音の背後にアーメット・アーティガンの功績があったのだと思うとそれだけで感無量というかね。

アーメット・アーティガンの偉大なる功績

だから、あれから数十年が経ったいま、こうして彼のことを書かせてもらえることに若干の誇りすら感じる。それは、アトランティックという巨大レーベルの重鎮であった彼と同じ感覚を共有できたということに対する感動かもしれない。そして同じようなことを感じる人が多かったからこそ、アトランティックは苦難を乗り越えながら延命できたのだと思う。彼の功績については初期ばかりがクローズ・アップされがちだけれど、同じように70年代、そして80年代以降にも注目すべきだ。


60年代にくらべれば現場にいる回数は減ったかもしれないけれど、それでも音楽に対する愛情は一貫して変わらなかった。『アトランティック・レコード:60年の軌跡』を観ると、あるいはドロシー・ウェイドとジャスティン・ピカーディーによる『アトランティック・レコード物語』を読むと、そのあたりがよくわかる。歴史に名を残す偉大な人物。しかしそれ以前に彼は偉大な音楽バカだったのだ。バカという言葉は語弊があるが、これはもちろん最大級のほめ言葉。純粋でやんちゃで、いい音楽を聴くとそれだけでうれしくなってしまうような、永遠の少年だったってことだ。

アーメット・アーティガンの偉大なる功績

そうなのである。先述したように、アーメットの基盤は黒人音楽への熱い思いだった。しかし同じベースを持つジェリー・ウェクスラーのそれとは違い、彼は黒人音楽ファンである以前に純粋な“音楽ファン”だったのではないかと思えてならないのだ。彼は2007年10月29日に83歳で世を去ったが、そう考えると死因すら象徴的だ。その日の彼はマンハッタン・ビーコン・シアターでのローリング・ストーンズ公演のバックステージで転倒し、頭部を負傷したことが引き金になって逝去したからである。音楽シーンに多大な影響を与えた男がいなくなったことは残念だけれども、この最期、いかにもアーメットらしいとはいえないだろうか。きっと天国でも、いい音楽を探し続けてるんじゃないかな。