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宮治淳一:まずは、「RHINOという名前は聞いたことはあるけど、一体どんなレーベルなのかよくわからない」という方のために、どういう変遷でRHINOが今の地位を築いていったかということを明確にしたいと思います。ほぼリアルタイムで経験したという萩原さんに今日はとことん語っていただこうと。ではまず、萩原さん自身がいちばん最初に買ったRHINOものは何でしたか?
萩原健太:六本木のウィナーズで見つけたフレッド・ブラッシー(米国の伝説的プロレスラー)、そう“噛みつきブラッシー”のレコード。何か変なものを出しているなと思って買って、後から見てみたら、RHINOのレコードでした。ところで、RHINOって何年に設立されたんだっけ?
宮治:73年。ものの本によると、レコード屋としてスタートして、音源を出すようになったのは70年代の後半くらいかな。
萩原:『2001年宇宙の旅』のカズー・ヴァージョンもそうだよね。そういうヘンなものばかり出している会社というイメージが最初ありました。オールディーズの再発の会社というよりも、変わったノベルティ系のものを出す、インディペンデント・レーベルっていう印象だったかな。何かこう琴線に触れるものをよくリリースしているなと、意識はしてましたね。で、そのうちに、Bobby Fuller Four(写真左)とか、Turtlesのベストが出はじめまして、パイド・パイパー・ハウスで見つけては買ってましたね。企画系のレーベルから、徐々に再発を手がけるレーベルになっていく過程を、なんとなくこう、レコード屋の店頭で、肌で感じてました。
宮治:私も確か、70年代の後半あたりに、ヨーロッパで作られたリイシュー盤、いわゆる“板起こしもの”がばんばん出てる中で、あるサーフィンもののインストゥルメンタルのコンピレーションを見つけたんですよ。で、これまた板起こし系の怪しげなヤツかなと思ったんですね。そしたら、曲解説や作家陣が記載されている、ちゃんとしたライナーノーツが付いてたんですよ。あの頃のライナーノーツは大概、曲名とアーティスト名しかないようなヒドいものでしたからね。その作品がRHINO盤だったと。これが出会いです。そのあとすぐにThe Challengersの『Best Of The Challengers』(写真右下)を入手しました。2色刷りのインディーっぽい代物ですが。これが82年だったかな。
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萩原:あの頃はこの程度のライナーノーツでも立派なものだったんでしょう。だから、それぞれの楽曲についての解説やクレジットをちゃんとコンパイルしている、という我々が理想とする形のコンピレーションを初めて出してくれたのがRHINOだったんだよね。
宮治: その“ちゃんとしている感”こそがRHINOの素晴しさですよね。当時(70年代後半)、アメリカのベスト盤といわれるものは、はっきり言って資料的な価値はほとんどなかった。だから、Bobby Fuller Fourはびっくりしたね。このちゃんとしたブックレットね。
萩原:衝撃だったね。ちゃんとしているってことが大事だったんでしょう? <COLLECTABLES RECORD>とか、あと<K-TEL>のコンピレーションとか。そういう、もういかにもいい加減なコンピレーションばっかりが幅を利かせていたからね。でも、RHINOの姿勢は違った。Bobby Fuller Fourもそうだし、一連のバブルガム・ヒッツもののコンピレーションもね。その時に僕はシングル・ヒットとかが大好きだったんだけれど、世の中の評価としては、そういうものは1段も2段も下なものとして語られる雰囲気があったよね。
宮治:こういうバブルガム・ミュージックは語るに価しない音楽ということで、一行あればいい、という扱いでしたよね。
萩原:そんなことないよな、って思っていたら、こういうちゃんとした、資料性がある形としてこれをコンパイルするレーベルが現れたと。レコード屋さんで、ジャケットを見たときに何か、“まさしくこれは俺だ!”って感じたのね(笑)。自分と同じ匂いみたいなものがぷんぷん漂っていて、衝撃でしたね。それと、遊び心。例えば、バブルガムもののコンピ(写真/左)で、ジャケットに貼ってあるシールの部分をこすると本当にバブルガムのにおいがするっていう盤があったりして(笑)(写真/右)。
そういうシャレっ気も大きな魅力ですよ。だた資料的にすごくきっちりしているだけじゃないぞ、というところね。
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宮治:そうそう。茶目っ気たっぷりなんだよね。
萩原:だから、そこがRHINOに惹きつけられた最大の理由。あの小さな匂い付きシールで始まっている。これとあと、トラジェディー・ソング(悲劇の歌)ばかり集めたコンピレーションがあって、アメコミみたいなジャケットで、裏をひっくり返すと、ティッシュの入れ物みたいになっている。1枚ティッシュが出ていて、泣いて下さいっていう。コンピレーション自体の選曲もすごくいいんだけども、それをどういう風に届けるかっていう取り組みがコレクター心をくすぐるんだよ。
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宮治:RHINOは、最初からエンターテインメント性もちゃんと持っていた。それがCDの時代になり、規模も大きくなり、さらにお金も使えるようになってから、その精神がかなり具現化していったんだよね。
萩原:RHINOの影響もあって、各レコード会社がすごくちゃんとした、資料的にも価値のあるコンピレーションをリリースしようっていう流れは出てきたじゃない。そういうしっかりとしたBOXセットとかがたくさん出るようになった中で、RHINOがそれらとどう差別化されているかっていうと、この精神なんじゃないかな。たぶんこんなことをやっても儲からないと思うんだけど。“これが大事”っていうね。
/>宮治: 面白いと思ったらやるっていうね。これなんてすごいよ。60年代に子供が持っていた、レコード箱。レコード箱にしているんだよ。わざわざ。
(写真/右)
萩原:中身はCDなんだけどね(笑)
宮治:レコードの大きさにするため、わざわざアダプターみたいなものを付けて。
(写真/右下)
萩原: ジャケットを付け、こういう箱に入れて、音楽トリビアみたいなクイズカードを入れたりしてね。
宮治:今のレコード会社の感覚でいうと、みんな卒倒するだろうね。「止めてください!」って(笑)。

萩原:「いいよ、これ作れ」っていう人達がやっていたレコード会社だから、まあ会社としてはつぶれちゃったんけどね。
宮治: 会社としてはつぶれたけれども、逆に、その精神は評価されたんだよね。自分たちのアーカイブを生かし、現代に伝えてくれる集団としてはこれ以上の人はいないという理由で、アトランティックが確か92年に50%出資して、98年にはワーナーが全部出資したんですよ。要は、自分たちでやるのは難しいと。あんた達、好きな人がやればいいのよと。まさに餅は餅屋ですよ。
第2回 RHINOのここが凄い へ続く
ライノはリチャード・フーズが1973年ロサンゼルスでレコード店を始めたことがそもそもの始まり。1978年店長のハロルド・ブロンソンの肝いりでレコードの発売もスタートさせる。当初はノヴェルティー、冗談ソングの類を発売していた。最初のシングルはワイルド・マン・フィッシャーの「Go To Rhino Records」で、なんとレコード店舗の奥の狭い事務所でカセット・レコーダーを使って録音した代物だった。1980年代に入りライノは既存のレコード・レーベルからライセンスを受け、ボビー・フラー・フォーやタートルズなどいわゆるオールディーズの再発に着手し、その際音質高上のためレコード・コレクターでありオーディオ・オタクのビル・イングロットを引き入れてヨーロッパの粗悪なリイシュー盤とは一線を画した。80年代中ごろからCDの世界にも積極的に参入、デジタル・リマスタリングを施した数々のヒット・コンピレーション、再発、未発表作品の掘り起こし、ボックス・セットなど、既存のレコード会社がやりたがらない(やれない)プロダクトを矢継ぎ早にリリースし、ライノの名声は世界中の音楽ファンに響き渡った。1986年ライノは6年のディストリビューション契約をキャピトルと結び、共同でルーレットのカタログの買収を行った。1992年にはアトランティックとディストリビューション契約を結ぶとともにタイム・ワーナーがライノの50パーセントの株を取得経営に参加、1998年には残りの50パーセントを取得、結果ライノは100パーセント、タイム・ワーナー・グループの子会社となった。今ではワーナー・ミュージック・グループの過去の資産の管理・運営をまかされるかなり重要なレーベルにはなったが、創業当時のレコード・オタク的発想、やんちゃ坊主的振る舞いは忘れておらず今後の彼らの展開は目が離せない。現在でもLA、ウエストウッドでライノの店舗は健在である。Go To Rhino Records!