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サンフランシスコ・サウンド・メモワール 1967- 2007 / 室矢憲治(MUROKEN/SUNRISE STUDIO)
サンフランシスコ・サウンド・メモワール 1967- 2007

「1960年代なかばのサンフランシスコ--それは時代としても場所としても本当に特別なところだった。あの時代あそこにいただけで何か十分に意味があったのだ。あの時代のあのときめき、今、自分は世界のこの場所に生きているんだ、というあの気持ち。あそこにいた人々、若者たちは、自分たちの時代に100パーセントのときめきを感じて生きていたのだ」。
 荒くれバイカー集団、ヘルズ・エンジェルスと行動をともにし、のちにニュー・ジャーナリズムの旗手としてスター・ジャーナリストとなったハンター・S・トンプソンは、ジョニー・デップ主演で映画化された彼のベストセラー本の中で、当時のサンフランシスコに生活する若者としての気分をこんな風に書いていた。
「あの時代、いちばん僕の記憶に鮮やかなのは、フィルモアから出てきたあの夜、あの明け方のことだ。音と光とダンス、シスコの新しいエネルギーが渦巻く、長髪の若者たちのメッカ、フィルモア・オーディトリアム。まわりの色と音が細胞に突き刺さり、頭の中で星雲が渦巻き、ステージの上の演奏者たちと聴衆はひとつになって新しい宇宙の中にいた。夢遊病のように劇場から出ると僕は家へ帰るかわりにバイクにまたがってベイ・ブリッジへと向かった。橋の途中のトンネルを稲妻の勢いで走りぬけると、行く手にオークランド、バークレイ、リッチモンドの街の明かりが見えはじめる。料金所を出て、どこを曲がってどの町へ出たものか、まだ確かではない。でも確かなことは、どの道を通ってどの町へ出ても、そこには自分と同じようにハイでワイルドなエネルギーにつつまれた仲間たちがいること――それだけは間違いないのだ。
 大人たちの眼には狂気としか映らなかったかもしれないが、若者たちはしらけている暇はなかった。このエネルギーの輝き--こでなにをしていようと自分たちは地球をとりまく大きな輪の中にあり、このエネルギーの渦巻きはすべてを変えるのだ!そんな気分がどこに行ってもいっぱいにあふれていたのだ」(『ラスベガスをやっつけろ』)


エネルギーの中心にあったのは音楽だった。1965年アメリカの人口は10代の若者たちが半数を占めていた。新しいフロンティアへの挑戦を呼びかけた若い大統領、ケネディ暗殺事件のあと、暗雲をはらうようにビートルズが現れ、この世代の若者たちに何か新しい生き方を示唆したことはまちがいない。65年カウパレス、66年、彼らにとっては最後のコンサートとなったキャンドルスティック・パークでの公演の後、この町サンフランシスコ周辺だけで月ごとに20のバンド、全体で200ほどのグループが誕生したという。
 こうした新しいバンドが演奏できるようにと自らもジェファーソン・エアプレインを結成したマーティ・バリンがシスコの町中にマトリックスというクラブをオープンしたのは1965年の8月のこと。
 その年の秋、町の有力新聞SFクロニクルの音楽評論家、ラルフ・グリーソンは“ロック・ダンス・ショーをやりたいから協力してほしい”とファミリー・ドッグと名乗る若いヒッピーの男女の訪問を受けた。“ビートルズ公演はすばらしかったが、自由に会場で踊れなかったのが不満だった”と言うのだ。新聞にイベント告知をして会場の船員ホールへ出かけたグリーソンは驚いた。ホールのバーからはアルコールが撤去され、ソフト・ドリンクのみ。壁にはLOVEときれいな刺繍入りの幕が掲げられ、その下の揺りかごの中にはすやすやと眠っている子供たち。対称的に会場の真ん中ではカウボーイ姿あり、インド聖者にスーパーマン、アラビアのロレンスありとハロウィン・パーティのようなコスチュームをまとった大勢の若者たちが、観客・出演者・主催者の区別なく一晩中、ダンス、ダンス、ダンス……。
 同じ頃、ラルフと同じように目を丸くしていたのが前衛劇団マイム・トゥループのマネージャーをしていたビル・グラハムという男だ。公園で無許可で政治劇を上演したと逮捕された劇団員のための救援イベントを開こうとしていた彼は、アレン・ギンズバーグ、ローレンス・ファリンゲティといったビート詩人の朗読にジャズ・グループの演奏を企画していたが、知り合ったばかりのジェファーソン・エアプレインという出来立てのロック・グループにも声をかけ、当日彼らの演奏が始まる頃には会場に入りきれないほどの若者がつめかけ、2度、3度と救済イベントも大成功。グリーソンのアドバイスで、もっと収容人数の大きな会場、30年代からあるシックな劇場、フィルモア・オーディトリアムを使ってライト・ショーつきのロック・ダンス・ショーを連続興行しはじめたのをきっかけに、彼は世界有数のロック・プロモーターの道を歩きはじめることになった。
 一方、ファミリー・ドッグ主催のダンスは、テキサスからジャニス・ジョプリンとともにヒッチハイクでやってきたチェット・ヘルムズが中心となり、アヴァロン・ボールルームを会場にして定例化。この二つの会場でジェファーソン、歌姫グレース・スリックのいたグレート・ソサエティ、ウォーロックス変じてグレイトフル・デッド、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーら後にサンフランシスコ・サウンドの旗手と呼ばれるグループが演奏し、めきめき人気と実力を上げていくのだった。

サンフランシスコ・サウンド・メモワール 1967- 2007

コンサートの告知をするのはウェス・ウィルソン、ヴィクター・モスコソ、アルトン・ケリー、スタンリー・マウス、リック・グリフィンというミュージシャン同様若く気鋭のグラフィック・アーティストたちの手になるポスター。そのユニークなサイケデリック調のデザインは、たちまち世界的にも知られることになっていくのだった。
 シスコの町で若者たちの音楽シーンを中心に何か新しいことが起こっている、というニュースはまたたくまに広がり、シカゴからスティーヴ・ミラーが、ニューヨークからヤングブラッズが、ロサンジェルスからはバークレー経由でカントリー・ジョーが、シアトルからイッツ・ア・ビューティフル・デイのデヴィッド・ラフレイムら、まだ無名のミュージシャンたちが続々とシスコへ移ってきていた。彼らが腰を落ち着けたのは、ハイト=アシュベリーという取り壊しが予想されるために低い家賃で借りられる、古く大きなヴィクトリア調の家が並ぶ地域。グレイトフル・デッドらのメンバーはこうした大きな一軒家を借りて共同生活をし、それは後のヒッピーたちのコミューン・スタイル生活のモデルにもなっていった。


サンフランシスコ・サウンド・メモワール 1967- 2007

 「まさか、俺たちのような確信的なはみだし者たちがこんなにいるなんて!」とクイックシルヴァーのギタリスト、ジョン・シポリナを唖然とさせたのが、 66年1月23~25日にロングショアマンズ・ホールで行われたトリップ・フェスティヴァルだ。主催したのはサイケデリック・カラーでペイントした大型スクールバスに乗り込み、カリフォルニア各地をまわって当時まだ合法だったLSDをパンチに入れ、意識実験パーティを開いていたパイオニア・ヒッピー集団、メアリー・プランクスターズ(陽気ないたずら者たち)という面々。アシッド・テストと呼ばれるこのパーティのハウスバンドとして、インプロヴィゼーション演奏を試し、ジャズとロックの混合したユニークな演奏スタイルを発見していったのが、後のグレイトフル・デッドであることはいまさら言うまでもないだろう。プランクスターズのリーダーだったのが、『カッコーの巣の上で』で衝撃のデビューを果たした作家、ケン・キージーだ。
 “政治や社会の既成のトリップに巻き込まれないで、それぞれの映画をロールしろ!”そんなキージーのメッセージが壁に映し出されたり、ベイエリアの前衛アーティストがライトやサウンド、オブジェを使いパフォーマンスを行う、それはマルチ・メディア・ショーだった。演奏をしたのはジェファーソン、デッド、クイックシルヴァーらシスコのトップ・グループ。後に大ベストセラーとなった『ホール・アース・カタログ』を発行し、さらに最初のウェブリンクを考案してサイバー文化のパイオニアともなったステュワート・ブランドは、会場の真ん中にティピ・テントをはり、ネイティヴ・アメリカン文化への関心をアピールしていた。いつもこわもての衣装でひときわ目立つヘルズ・エンジェルスの連中もいたが、この日ばかりはカラフルなヒッピー群衆の中にすんなり溶け込んでいたものだ。
 そして67年1月、台頭するサンフランシスコ・ヒッピー・ムーヴメントの存在を世界中に知らせた“ヒューマン・ビー・イン”というイベントが開かれる。ハイト=アシュベリーのヘッズたち、アジアの旅から帰ってきたばかりのギンズバーグやゲイリー・スナイダーというビート詩人たち、SF禅センターの老師、アングラ新聞『オラクル』の発行者やアメリカ学生運動のはしりとなったUCバークレーのフリー・スピーチ運動の活動家たち……それはこの集まりの別名、 “ギャザリング・オブ・トライブス”にふさわしい、まさに種々様々なグループの“部族集会”だった。それだけではない、会場のゴールデン・ゲイト・パークのポロ・グラウンドには、もちろんレコード会社のスカウトたち、広告業界のエリートたち、デビューアルバムを出す前のジム・モリソンとザ・ドアーズ、のちのアップル・コンピューターの創始者、まだ高校生だったスティーヴン・ジョブズ、コメディアン、ロビン・ウィリアムスなどなど。
 ティモシー・リアリーの“チューンイン、ターンオン、ドロップアウト”のメッセージやギンズバーグらの詩の朗読に続いて、青空と緑のもとでジェファーソン・エアプレイン、デッドらが白熱の演奏をし、会場に集まってきた2万人の人々は持ち寄った楽器を鳴らし、フルーツ、や花、食べ物をまわりの参加者に渡し、分かち合いながら、踊った。何をとりたてて訴えるという集まりではなかったが、それは素晴らしい集まりだった。それだけの人数が集まったのに、警備に現れたのは騎馬警官がふたりだけ。そのうちのひとりが迷子になった子供を抱え上げ、ステージ横のセキュリティ係をしていたひとりのヘルズ・エンジェルの手にゆだねた時は、“ピース・オフィサーに感謝を!”とアナウンスされ、会場中から拍手がわき起こった。集まったすべての人々が集まりの主役で、たがいに美しいオーラを投げかけ合う、ほんとにビューティフルな集まりだったのだ。
 その様子は集まったマスコミを通じて、ニューヨーク、ロンドン、パリ、世界中に報じられ、その夏のモンタレー・ポップ・フェスティバルへ、69年のウッドストック・フェスティヴァルへと道を開いていった。そう、ひるがえって、無料入場をしようとして乱闘騒ぎがあったワイト島フェスやカナダでのフェスティバル・エクスプレス会場の不埒者たちの“フリーにしろ!”という行動の根拠も、このシスコ・フリー・コンサートが根拠だったに違いない。
「ロックはまたたくまに金目当ての巨大ビジネスになり、客の若者たちも感謝の心を忘れはじめていったよ」と91年、事故で他界する直前のインタビューで、僕に向かってシスコ・ロックの心のボス、アンクル・ビルはそう言ってため息をついていたっけ。
 いや実はこの日の集まりは、タダではなかったのだ。思い出フラッシュバックついでに言ってしまえば、日の入りを見届け、まわりのごみを拾い、公園の入り口に駐車した場所へ友人と戻ってみると、そこには指定外駐車違反のチケット……でも、たった3ドルの罰金で、あんな歴史を変えたイベントに参加できたのだから、誰に文句を言う必要があるだろうか……。


サンフランシスコ・サウンド・メモワール 1967- 2007

そういえば67年は前出のラルフ・グリーソンをシニア・エディターにして、UCバークレーの学生あがりの若者、ヤン・ウエナーが後のアメリカを代表するロック雑誌『ローリング・ストーン』を創刊した年でもあり、またそれまでのAM局のトップ40形式に不満を抱いていたトム・ドナヒューという有名なDJが経営不振のFMラジオ局、KMPXをのっとり、2~3分ではおさまらないシスコ・グループの曲を自由にオン・エアして、いわゆる世界最初の“アンダーグラウンド・ラジオ局”を始めた年でもあった。倉庫を改造した波止場近くのスタジオには、かけてもらおうとデモ・テープを持ってうろつく若いミュージシャンたちや、フィルモア、ウインターランドでの公演にやってきたクリームやレッド・ツェッペリンらのスターたちが顔を見せ、素敵なシーンを作っていたもの。この年、全米のトップ・グループ入りしたCCRのアルバムの先行オン・エアや、まだ無名だったヤングブラッズ、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、ジョニー・ウインターらの曲をヘヴィー・ローテーション。全米規模でヒットさせたのも、このラジオ局の功績が大きかったのだ。
 66年、67年のサンフランシスコはそんな風に、ときめきが新しい形となって輝き、渦を巻いて広がっていった、ほんとうに特別な場所だったのだ。このCDブックを手にした方たちも、きっとそれぞれのときめきの扉をひらいているに違いない。

 この素晴らしい4枚組のアンソロジーの始まりと終わりを飾る歌「(Let’s)Get Together」はNY、グリニッチ・ヴィレッジから西海岸に移住してきてクイックシルヴァーのメンバーにもなったフォーク詩人、ディノ・ヴァレンティが書いた、“サンフランシスコ・フラワー・リヴォルーション”の時代精神を象徴する讃歌として、いまもロック史上に残る名曲だ。ジェファーソン・エアプレインはじめ多くのグループが取り上げたが、あのウッドストック・フェスティヴァルが催された69年夏にヤングブラッズのヴァージョンが全米で大ヒットしている。
 そしてそれから10年後の79年9月、ジャクソン・ブラウンやグラハム・ナッシュらがスリーマイル島で起きた原発事故に対して反原発のNO NUKES/MUSE コンサートをブルース・スプリングスティーンら多くのミュージシャン仲間に参加を呼びかけた時も、元ヤングブラッズのジェシー・コリン・ヤングが会場のマジソン・スクエア・ガーデンで、あるいは10万人が参加したマンハッタン南のバッテリー・パークで“僕たちが歌うのは愛の歌/微笑むんだ兄弟たち、愛し合おうぜ/一緒に力をあわせよう”と大合唱。新しいエコロジー運動の流れの中に、この歌を甦えらせている。(CDにもなっている『NO NUKES CONNCERT』を聴いてみるといい、観衆と一体の「Get Together」は鳥肌ものだから!)
 もうひとつ、この歌にまつわるエピソードを紹介しておこう。1976年、ベトナム戦争が、サイゴンの北10キロまで北ベトナム軍がせまり、サイゴンは没落寸前。アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで最後の脱出が行われていた時、アメリカ軍放送のDJが最後に流したのが、なんとこの曲。「これでベトナムからのアメリカ軍放送を終わります。放送を聴いてきてくれた皆様にLOVE & PEACE!」--最後の挨拶をそう結んだグッドバイ、ベトナムのラストDJは、やはりシスコ出身のラヴ&ピース派のひとりだったのだ!

 “60年代の若者たちに音楽、ファッション、ライフスタイルとさまざまな面で影響を与え、意識革命をもたらしたのが、1967年夏、サマー・オブ・ラヴを合言葉に、ここサンフランシスコの町に花開いた、自然発生的な若者たちのギャザリングでした。あれから40年、シスコから世界へと発信した、あの名付けられない優しい革命の夏を記念して…”青春時代にもろヒッピー時代の影響を受けたとおぼしき現サンフランシスコ市長が、そんな呼びかけを行ったのは今年(2007)の6月のことだった。
 かくして9月2日、ゴールデン・ゲイト・パークの緑の中で開催された『サマー・オブ・ラヴ40周年集会』にはタイダイ・シャツ姿の2、3世代にまたがる老若男女、10万人が集まり、かつてフィルモアやアヴァロンのロック・ダンス会場を揺らした往年のロック戦士たちとのリユニオン・パーティを楽しんだのだった。65年夏のネヴァダの山奥のゴールドラッシュ時代のサロンでコスチューム・パーティの原型を作ったシャーラタンズは、昔そのままのエドワード朝時代のスーツ姿で登場。モビー・グレイプ、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、カントリー・ジョー・マクドナルド、グレイトフル・デッドのボブ・ウィアーと“シスコ・サウンド”の旗手たちが続々と続く。キャンド・ヒートはもうオリジナル・メンバーはひとり、ただでさえ過激なドラッグ実験で他界する率の高い世代だったが、やはり40年の時の流れは否定しようがない。それでもニュー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジのジョン・ドーソンが「今日は来てないが、天国からジェリー(ガルシア)がみんなによろしくとさ」とやると観衆は大喝采。“陽気にやろう、みんながそれぞれに楽しいと思うことを真剣にやろう”といつも笑顔で語っていた“キャプテン・トリップス”ガルシア。サンフランシスコ・サウンドの本質は、との質問に“ぼくらシスコの音楽仲間は音楽のスタイルは違っていても、ひとつのコミュニティの仲間としておたがいを認め、リスペクトしあっている。エゴや競争心でおたがいを傷つけ合う社会に対してオルタナティヴな生き方を示しているんだ”と答えたのは、まだ彼が24才の時のことだった。
 この日の“同窓会”のために何十年ぶりに会ってリハをして、結局よれよれの演奏しかできなかった、みたいなグループが多い中で、時の流れを感じさせない圧巻の演奏をしたのは、事前の出演予告なしに現れたポール・カントナーとマーティ・バリンの新生ジェファーソン・スターシップ。“いいぞ、マーティ、オルタモントでエンジェルスと渡り合ったのがおまえだけだったこと、俺たちはおぼえているぞ!”と客席から声が飛ぶ。おそろしいファンがいるのだ、シスコには、まだ……。続いてジャニスの「メルセデス・ベンツ」の作者でもあるビート詩人、マイケル・マクルーアがドアーズのキーボード奏者、レイ・マンザレクの率いるジャズ・オーケストラの演奏をバックに筋金入りの朗読パフォーマンスをして会場をわかせる。かつて、「サンフランシスコ・サウンドに影響を与えたのは3つのB、ビートルズ、ボブ・ディラン、ビート詩人たちだ」と言っていたビル・グラハムは、マクルーアの書いた「ビアード」という戯曲をフィルモアで上演させたり、機会のなかったロシア詩人の朗読をジェファーソン・エアプレインとカップリングさせて、若者たちに聴かせたり、異種芸術のミックスを得意とする素敵なアート・プロデューサーでもあった。
 どのバンドも持ち時間は20分たらずだったのは残念だったが、合間にはウッドストックの名MC、ウェイヴィー・グレイヴィーらのスピーチが入ったり、ステージ横のテントではポスター・アーティスト、スタンレー・マウスがこの日のために作ったポスターのサイン入り即売をやっていたり、アトラクションはたっぷり。しゃぼん玉が風に飛び、レインボー・カラーの女性たちが踊り、ジミ・ヘンドリックスのそっくり男は“一緒に写真を撮らせて”ともてまくり……。
 ああ、昔、“シスコの公園で俺も一度はフリー・コンサートをやりたいぜ”と住宅街真ん中の小さなパンハンドル公園で、ジミ・ヘンはいきなり予告なしで大音響の演奏を開始。たちまちご近所からの苦情電話でかけつけた警察の指示で、“会場移動”を命じられ、演りなおした場所もこの場所だったっけ……とフラッシュバックする間もあらばこそ、アングラ・ラジオ局の人気キャスターだった、スクープ・ウィスカーがマイクを握り、「なあ、みんな、サマー・オブ・ラヴの理想の実現は今からでも決して遅くないはずさ!」とノスタルジーを未来へのメッセージに変えようと呼びかけ、イベントをしめくくった。さすが“世の中のバッド・ニュースにうんざりしてるなら、町へ出て行って、きみがグッド・ニュースになればいい”と名文句を吐いた名キャスター!彼の紹介でトリのステージに上がってきたのは、ディノ・ヴァレンティの遺児、ジョリー・ヴァレンティと、あの“ミスター・カリフォルニア・ヴォイス”ジェシー・コリン・ヤング。ふたりが歌いだしたのは、もちろんあの歌、「ゲット・トゥゲザー」。
“ぼくらが歌うのは愛の歌……”いつしか青から茜色に変わりだしたサンフランシスコの町の空へ、10万人が合唱する声は高く舞い上がっていくのだった……。

LOVE IS THE SONG WE SING : SAN FRANCISCO NUGGETS 1965-1970

LOVE IS THE SONG WE SING : SAN FRANCISCO NUGGETS 1965-1970

VARIOUS
LOVE IS THE SONG WE SING : SAN FRANCISCO NUGGETS 1965-1970

品番 : R2-165564   仕様 : 4枚組BOX

「サマー・オブ・ラブ」40周年記念!ヒッピー・ムーブメントの発祥地サンフランシスコから生まれたロック・サウンド77曲を集大成!



室矢憲治(MUROKEN)

室矢憲治(MUROKEN

 60年代からアメリカの音楽シーンをNY、サンフランシスコなどでリアルタイムで体験してきたロック・ジャーナリストのパイオニア。アメリカ最初のロック評論集『アウトロー・ブルース』(ポール・ウィリアムス)を皮切りに『ニール・ヤング詩集』『ビートルズ・マジカル・ヒストリー・ツアー 1964-65 』(小学館文庫)など著訳書多数。http://www.muroken.com/でウエブ・マガジン『ゴールデン・ロード』を主催している。


グレイトフル・デッド ROCKIN THE CRADLE, EGYPT 1978」特集

グレイトフル・デッド
ROCKIN THE CRADLE, EGYPT 1978」特集