ロック激動のイヤー、1969年にタイムスリップ!私の1969

「1969年あなたはどこにいた?」特集を思いついたのはこの年が歴史的に見ても、音楽の変遷を見ても世界規模で大変重要と考えたからです。多くの既存の価値観が崩れ去り、新しい何かが生まれた瞬間といってもいいと思います。そういうダイナミックな時代を生きたわたしと同世代、または少し先輩の方々からそれは実のところなんだったのかを直接聞いてみたいと思いました。なぜなら多くのジャーナリズムが語ってきた表層的なものとは違い、その時代の生き証人から、実際の個々の体験を伺ったほうがよりその時代がリアルで、かつスリルに満ちたものとして浮かび上がってくるからです。今回はわたしの長い友人、音楽評論家の萩原健太さんの登場です。萩原さんとわたしは大学のクラブ活動で出会った間柄で早いもので35年の付き合いになりますが、萩原さんの洋楽黎明期の話をほとんど聞いたことがありませんでした。この特集で萩原さんの「洋楽新人」時代の実態が明らかになります!(宮治淳一)
■ 第1回 植村和紀さん [前編] [後編]
■ 第2回 萩原健太さん [前編] [後編]
■ 第3回 シー・ユー・チェンさん [前編] [後編]
■ 第4回 森川欣信さん [前編] [後編]

ロックを取り巻く価値観が大きく変化した1969年

萩原健太: 1969年って、価値観が大きく変わり始めた時期で、混沌としているんだよね。米英のメインストリームのロックについてもちょうど過渡期だったよね。人気投票でビートルズがレッド・ツェッペリンに抜かれたっていうのもその時期、NMEの「Reader’s Poll(読者投票)」でビートルズがツェッペリンに抜かれたという。

宮治淳一: おまけに、ビートルズの『Abbey Road』の次に1位になったのが、キング・クリムゾンの『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』だったからね。僕みたいなポップス好きからすると、いよいよ変な方向にいってるなぁと。「こんなのがなんで1位になるのよ」っていう(笑)。小難しいわけのわからないグループがいっぱい出てきたんだよ。あと、1曲が長いから「片面に3曲しか入ってないよ!」っていうさ。

萩原: 69年のウッドストック・フェスって、ロックを旗印にして革命を起こせるかもしれないという、いわゆる“ラヴ&ピース”思想の象徴なんだよね。ロックをもとに集まって、愛と平和を訴えて戦争に反対するっていう共同幻想。でも結局、ウッドストックを頂点にして空中分解しちゃうんだよね。実際開催された時はまだうまくいっていた気がするけど、4ヵ月後のオルタモントの悲劇(69年12月に行なわれた、ローリング・ストーンズをメインアクトとするフリー・コンサートにて、黒人青年が警備員役のヘルス・エンジェルスの暴行により死亡してしまった事件)によりで急速に萎んじゃうわけじゃない? それと、ムーヴメントのアイコンだったジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソンが、皆ドラッグのオーバードーズで死んでいくと。当時、ドラッグってヒッピー思想の中である種、崇めたてまつられていたところがあったじゃない? その考え方自体の愚かさに皆が気づいたっていうのも69年辺りなんだよね。

宮治: 69年の時点ですでに終焉へと向かいつつあったと。

萩原: 確かに69年って、ベトナム反戦活動も公民権運動もかなり盛り上がってたんだけど、ベトナム戦争は泥沼化し、前年の68年にキング牧師やロバート・ケネディが暗殺されたりとか、実はある意味かなり消沈してたんだよね。で、いろんな意味でラヴ&ピースの夢が実は幻だったんだなっていうことを、ウッドストックの直後に皆が思い知っちゃったという。ただ、この映画は少し美化されちゃってるから、真実が曖昧になっているところがあるんだよ。そして、70年に入ると価値観の変化がいっそう顕著になっていったんだよね。 当時は“The Cooling of America”って言われてたんだけど、日本で言うところのいわゆるシラケ。“愛と平和”思想のまさに反動で、ミーイズム(Meism/自分中心主義)みたいな、各人が自分の中に閉じこもっていくというムードになっていくんだよね。そこで、シンガー・ソングライターみたいな文化が表に出てくるわけ。ジェイムス・テイラーが、嵐の混乱をくぐり抜けた心情みたいなものを歌った「Fire and Rain」で大ヒットを飛ばし、ニール・ヤングやキャロル・キングも大ヒット作品を次々とね。で、アメリカがそういう非常に個人的な時代に入っていった頃に、日本では、ちょうど映画版『Woodstock』が公開されたと。だから、受け手としてはどうしても混乱しちゃいますよ。ニール・ヤングとかジェイムス・テイラーとか聴いていいなぁと思っている時に ジミヘンの熱狂的なパフォーマンスの映像がいきなり来るわけ。クールなシンガー・ソングライターの文化とかが一緒くたになっちゃうという(笑)。やっぱり、情報が入るのが遅かったことを含めて、いろんなものが混ざって入ってきちゃうので、ややこしかったよね。今でこそ、自分の中でちゃんと整理がついているけど、これをまともに浴びてた時は、完全にカオス状態(笑)。

ニール・ヤング
ニール・ヤング
ジェイムス・テイラー
ジェイムス・テイラー

日本の洋楽シーンにおけるポップスの評価

宮治: 一方の日本のシーンでは、グループサウンズ・ブームにもかげりが出てかなり歌謡曲に近い不思議な曲が一杯出てきた。ズー・ニー・ヴーとか。彼らの「白いサンゴ礁」を聴いた時に、もうこれでブームは完全に終わったなと思ったんだよね。するとお次は、フォークの時代になるわけですよ。メインストリームでのヒットこそ出していないんだけど、岡林信康とか、高石ともやとかが深夜放送というオルタナ・メディアを通じて若い人の間で注目を浴びるようになりました。

――アメリカと同じ道をたどっていったたわけですか?

萩原: 日本の方が逆にもうちょっと反体制なものをひきずった状態。フォーク自体が左よりの運動から出てきたわけ。で、アメリカは個人や内省を歌うみたいな。ある種の反体制運動に敗れた人たちがパーソナルな部分に向き合うような傾向が強くなってきたんだけど、日本ではまだ反体制を引きずりながらフォーク・シーンを支持しているところがあったわけです。

宮治: 70年に大きな安保闘争がありましたからね。一方で、吉田拓郎というフォーク界のスターが出て、商業的にも成り立つようになりましたね。

萩原: ただ僕らは、はっぴいえんどを聴いてたけどね。はっぴいえんどって、商業的には、全然売れてないわけです。でも、『ミュージック・ライフ』誌に大きく取り上げられたりなんかして、70、71年くらいになると、はっぴいえんどのクールで内省的な世界がすごく評価されるわけ。ただ彼らって、ロック・バンドって側面が大きかったんだけど、いわゆる米のシンガー・ソングライターに近い部分っていうのは松本隆さんが作った詩の世界によるところが大きかった。でも、当時は批判されていたわけですよ。「ロックってのは、アメリカ、イギリスで生まれた音楽だから英語でやらなければいけない」って主張する一派がいて、内田裕也さんとかね。フラワー・トラベリン・バンドのように全編英語詞のバンドもいたし。

宮治: 日本においては、まさに黎明期だったから、試行錯誤の連続だったんだよね。

萩原: いろんな派閥や主張があった。で、そもそもの原因は本当に情報が少なかったこと。誰も本質的な部分がわからなかったんだよね。

宮治: 海外に滞在してた人が戻って来ると、その人がそう言ったことが完全な事実になっちゃうくらい(笑)。「今のロンドンはこうでさー」って話になると、それを実証するものがないから、鵜呑みにするしかないわけですよ。だから、その現地情報が間違っていたとしても、そのまま広まるというね。

萩原: 逆に、その状況を今考えると面白くてしょうがないよね。あと、結構内容が充実していたポップスものも一緒くたに日本に入ってきてたよね。

フラワー・トラベリン・バンド/SATORI
フラワー・トラベリン・バンド/SATORI
ドアーズ/タッチ・ミー
ドアーズ/タッチ・ミー

宮治: そう、ジャンルに関係なくね。フィフス・ディメンションの「Aquarius(邦題:輝く星座)」「Wedding Bell Blues」、ゾンビーズの「Time of the Season(邦題:ふたりのシーズン)」とか。

萩原: ビージーズも良かったしね。ロックなのかポップスなのか、よくわからないものも入ってきてた。まぁそんな時代だよね。ポップスっていう括りでロックも聴いていたところもあるんで。

宮治: それは共感できますね。

萩原: あと、当時の日本の洋楽シーンって、ポップなものは評価しないっていう風潮があった。僕がカッコいいと思ってるいのはことごとく評価が低かったからね。例えば、僕が初めて買ったドアーズのシングル「Touch Me」なんか、カッコいい曲なんだよ。でも、当時のレビューの多くは、ホーン・セクションは入っているわ、ストリングスは入っているわで、ドアーズが完全に堕落したっていう書き方なんだよ。どうも俺がカッコいいと思っているものは堕落したものらしいと(笑)。裏切りもの扱い。ドアーズっていうのはアンチ・コマーシャルな存在であり、コマーシャルな音楽の象徴ともいうべきストリングス・セクションを入れるなんて、堕落の極みであると。

宮治: そういう楽器を入れる、入れないっていうところが1つの評価基準になるくらい。

萩原: メンバー以外の人間が演奏に入っているものはそんなのバンドじゃない、というね。そしたら「ビートルズの「Yesterday」とかどうなるんだよ?」みたいな。ただ、「Yesterday」なんかも当時は批判されているわけだよね。ストリングスやホーン・セクションが入っているだけで非難されるっていう(笑)。今じゃ、想像つかないけど。

宮治: クリームとかジミ・ヘンドリックスみたいに、最小限の人間でやるっていうのが本物のロックであって、そこにいろんなものを足したり、ましてやストリングスなんて入れた日にはですね…。

萩原: ロックっていうのが子供向けのガラクタ音楽であるっていう定義があることから1歩抜けようとしていた時代なので、やみくもに芸術性を強調するところが出てきちゃっていたのかなと。クリームとかジミヘンみたいなアドリブ、インプロヴィゼーションをやっているほうが、ジャズに近くて高級だみたいなね。音楽の中に、純然たるヒエラルキーが存在していたんだよね。クラシックが一番高級で、その次にジャズがきて、ポップス、ロックなんてのは子供だましの音楽だと。でも、そうじゃない、ロックだって芸術なんだって出てきちゃったのがアート・ロック。ロック・ミュージシャンのことをもアーティストって呼ぶようになったのは、たぶんこの頃から。

――なるほど、当時の大人は聴いていなかったんですか。

萩原: ビートルズが子供に受けして人気者になったのが64、5年。それがだんだん成熟していき、いろんな音楽要素を取り入れて生まれたのが67年の『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』。ジャズの世界でもマイルス・デイヴィスがそういう要素を取り入れはじめて、ロックも芸術だって強調しはじめた時期。そんな中でドアーズは「Touch Me」を出したからね。“こいつら悪魔に魂を売り渡した”的な扱いを受けるという(笑)。歌詞の世界もドアーズってすごく詩的なことを歌っていたのに、その「Touch Me」は完全なラヴソングだったから…。

宮治: もう、完全にドアーズは堕落したと(笑)。

知られざるウッドストックの真実

萩原: そうだ。これも似たような話なんだけど、映画版『Woodstock』で、最初にグッときたのはシャナナだったりするんだよね。ある意味、非常にゆがんだ見方なんだけど(笑)。

宮治: それはゆがんでますよ。だって映画を観た人は、皆「とにかくフーが良かった!」とか言っているんですよ。で、共通していたのは、「最低なのはシャナナだった」って(笑)。そこまで言われるほど、そんなにひどいのかなって思っちゃうところもあるけど。

萩原: シャナナは良かったのになぁ。でも、それはしょうがないと思うよ。ウッドストックって、どうしてもロックとかラヴ&ピースっていう価値観で語られるからね。あと、ドラッグだ、ヒッピーだ、フリーセックスだっていうイメージもあったから、アメリカのヤバい風潮として、日本では受け止められていたりしたよね。

――フジロックの最初の1、2年の頃も、ゴミの山とか仕切りが杜撰だとか、一般メディアは何かと批判的だったことを思い出しますね。

萩原: それよりももっと、カルチャー、思想的に批判されたと思うのね。若者たちと大手メディアとの軋轢はもっと大きかったと思うからなおさら。フジロックの場合は、興行としての話だからね。ウッドストックの場合、もう興行としてはまったく成立していなくて、興行みたいなものを抜きにしたところでカルチャーとして「これってどうなのよ?」っていう批判。時代的には、そこが大きく変わっちゃっているのね。ウッドストックって、ある種の理想を表現してたわけですよ。いろんな人気ミュージシャンが出演して、尋常でない数のオーディエンスが集まって、皆が一緒の思いで1つにまとまったという。でも実際、いろんな資料を見てみると、舞台裏は相当メチャクチャだったみたい。誰がトリになるかということでモメたり、トリになりたいがためにわざと遅れて来るミュージシャンがいたり、ギャラでトラブッたりね。

――ちなみに、ウッドストックって、有料だったんですか?

萩原: 有料だったんだけど、途中からはもうグダグダになっちゃって徴収できなかったみたい。払った人、払っていない人も含め40万人。だから、興行としては、まったく成り立っていないイベントなんだよね。だた、その時に仕切っていたのはビル・グレアムが、その経験をもとにして70年代にロック・ビジネスを確立したわけ。だから、ウッドストックってロックをビジネスとして成立させるための1つの試行錯誤の場ではあったというとらえ方もできる。映画では、そのグダグダな感じ自体も「常識にとらわれない新しい興行のあり方だ」みたいに美化してる節はあるんだけどね。

――映画版『Woodstock』がなかったら、悪名高きフェスだったかもしれませんね。

萩原: かもしれないよね。でも、やっぱりこの時のサンタナやスライ、ジミヘンもそうだけど、ものすごい映像が残っているという側面は見逃せないよね。面白いのは、撮る人が、音楽畑じゃなくて、報道/ドキュメンタリー系の人が撮っているんだよね。ジャーナリスティックな視点でとらえているんだよ。

宮治: エンターテイメント作品というよりも記録映画を撮ろうっていう感じですよね。

萩原: オーディエンスの目線、パフォーマーの視点、会場を設営してる裏方さんの苦労とか、同時進行でいろんなことがあるんだよっていうのを、ジャーナリスティックな切り口で撮った映像作品として考えると、初かなと。そういう意味でも、新しいものを作ったわけでもあり、何かの終わりを記録したものでもありっていう。60年代の後半のロックがもっとも幸せだった瞬間をとらえた映像作品じゃないかな。70年代半ばくらいになるとレコーディング・スタジオに弁護士が現れる時代に入るからさ。

宮治: 最後の輝きというのか、終わりの始まりというのか・・・ロックがビジネスとして確固たるものになる前の貴重な記録なんですね。そういう意味では69年というのは、1つのターニング・ポイントということがわかります。今回はおもしろい話をたくさん有難うございました。


1969年 萩原さんがよく聴いたアルバム・ベスト5

  • 『エルヴィス・イン・メンフィス』/エルヴィス・プレスリー
  • 『20/20』/ビーチ・ボーイズ
  • 『血と汗と涙』/ブラッド・スウェット&ティアーズ
  • 『アビー・ロード』/ビートルズ
  • 『スコット・ウォーカー・アルバムNo.3』/スコット・ウォーカー