ロック激動のイヤー、1969年にタイムスリップ!私の1969

「1969年あなたはどこにいた?」特集を思いついたのはこの年が歴史的に見ても、音楽の変遷を見ても世界規模で大変重要と思うからです。多くの既存の価値観が崩れ去り、新しい何かが生まれた瞬間といってもいいと思います。そういうダイナミックな時代を生きたわたしと同世代、または少し先輩の方々からそれは実のところどうだったのかを直接聞くことにしました。なぜなら多くのジャーナリズムが語ってきた表層的な「論文」に比べ、その時代の生き証人から、実際の個々の体験を伺ったほうがよりその時代がリアルで、かつスリルに満ちたものとして浮かび上がってくるからです。今回は大のビートルズ通であり、山崎まさよし、スガシカオらをマネージメントするオフィス・オーガスタを率いる森川欣信さんの登場です。森川さんと私は1979年に知り合いそのあとちょっとの間ビートルズ&マージー・ビート系バンドを作って遊んだ仲です。当時からビートルズに対する「愛」にはただならぬものがあった森川さんに69年の「愛」のカタチを大いに語ってもらいました。(宮治淳一)
■ 第1回 植村和紀さん [前編] [後編]
■ 第2回 萩原健太さん [前編] [後編]
■ 第3回 シー・ユー・チェンさん [前編] [後編]
■ 第4回 森川欣信さん [前編] [後編]

1969年の幕開けは『ホワイト・アルバム』。安田講堂どころじゃないやって(笑)。

宮治淳一: まず、お決まりの質問ですが、1969年あなたはどこにいましたか?

森川欣信: 高校1年から2年にかけてが69年だったので、世田谷区の実家にいましたね。69年高校1年の年明け一発目に買ったのがビートルズの『ホワイト・アルバム』。本国でのリリースは、68年の11月だったけど。

宮治: いきなり高いのをいきましたね。2枚組で4、000円!

森川: そう4、000円で買った。で、当時を振り返ると、『ホワイト・アルバム』は、まずジャケットのことを気にしてましたね。ビートルズってジャケットがすごく重要だったじゃない。66年の『リヴォルヴァー』から67年『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』、サイケな『マジカル・ミステリー・ツアー』もそう。ジャケットが毎回毎回強烈なインパクトがあったよね。で、新作は、どんなジャケットになるのかって、ものすごく興味があったわけ。でも、当時の洋楽メディアは『ホワイト・アルバム』に限って、どこもジャケットに関する言及はなかったんだよね。その頃の『ミュージック・ライフ』誌が今でも実家にあるんだけど、どんなジャケットかって前情報が、どこにも出ていなかった。あと、オールナイト・ニッポンだったかな、糸居五郎さんの番組で「バック・イン・ザ・USSR」と「ディア・プルーデンス」が紹介されたの。当然、糸居さんがアルバム・ジャケットのことも話してくれるだろうと期待していたら、一言も言わないのよ。それで余計に「今度のビートルズはどんなジャケットになっているんだろう」って疑問が大きくなってきたのね。

宮治: まったく触れないから、逆に気になるという。

森川: あの当時、ビートルズが先頭に立って、ジャケットのアートワークを競い合っていたフシがあるじゃない。ストーンズは『サタニック・マジェスティーズ』で3Dみたいなのをやったりね。そうこうするうちに、ある時、発売寸前くらいかな、今回のビートルズのジャケットは真っ白だっていう噂を耳にしたの。全面まっ白で、小さく「THE BEATLES」と記されている。あと、自分だけのシリアル番号が入っているらしいぞと。その情報だけじゃ、もう何がなんだかっていう感じ。

宮治: 高校1年生の許容範囲を完全に凌駕しちゃってますね。

森川: 確か、69年1月18、19日の東大安田講堂占拠事件の前後に店頭に並んだんだよね。僕的には、安田講堂どころじゃないやって(笑)。で、下高井戸にある「オスカー」ってレコード屋に買いに行ったわけ。で、やっと、それを手に取った時、ちょっとショックだったんだよね。

宮治: 真っ白なのが。

森川: そう。本当に真っ白なんだと(笑)。でも、1つ感激したのは、盤を取り出してみたら、初のアップル盤だったの。リンゴが半分に切ってある絵のやつね。その時に「あ、今までのはメーカー発売だったけど、レーベルって、こんなこともするんだ」みたいな感動はあったね。ああ、カッコいいなって思った。

宮治: 30曲も入ってますが、どう思いました?

森川: 当時は、嫌だった。

宮治: いわゆるシングル・ヒットみたいなものがあまりないわけでしょう。

森川: ただただ長いしさ。『ホワイト・アルバム』は『サージェント・ペパーズ』に次いでがっかりしたんだよね。

宮治: なぜですか。

1968/9年当時の森川氏
1968/9年当時の森川氏。グレコのギブソン335風なギターが時代の気分を出してます。 『MUSIC LIFE』1969年1月号
当時の洋楽のバイブル『MUSIC LIFE』1969年1月号。星加ルミ子編集長のビートルズ最新盤『THE BEATLES』の試聴レポート掲載。曰く「ビートルズのダブル・アルバムはニュー・ロックとウエスタンとフォークソング」 1『THE BEATLES』の日本盤発売を告知する広告
『THE BEATLES』の日本盤発売を告知する広告。「あなたには何番目のレコードが?」のキャッチがいいです。

森川: 『リヴォルヴァー』ですごく変わったって、当時『ミュージック・ライフ』に書いてあったんだけど、僕自身は『リヴォルヴァー』を聴いた時には、あまりそうは思わなかったの。でも『サージェント・ペパーズ』を聴いた時に、「え! 何これ?」と思ったのね。当時、中学の友達で南アフリカからの帰国子女のヤツいて、すごくビートルズに詳しかったの。で、彼に「『サージェント・ペパーズ』ってどう?」と聴いたわけ。そしたら「聴いたよ。ビートルズは終わりだよ」って失望してたのをよく覚えてる(笑)。余談だけど「これからはスペンサー・デイヴィス・グループしかないよ」とも言ってた(笑)。僕もまさしくそういう感想だったから、安心したよね。アルバム収録曲では、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(リプライズ)」しか認めないって姿勢だから。とにかく、ほとんどの楽曲にいろんな音が目いっぱい詰め込まれてたから、受け入れられなかったのかも。でも、その拒否反応って、たぶん、ビートルズならではの"4人感"が、なくなりつつあったことを察したからだと思う。

宮治: 無意識に「あぁ、今までのビートルズとは違うんだな」とがっかりしたんですね。

森川: そう。『ラヴァー・ソウル』までは、どちらかというとジョンの楽曲が多かったのが『リヴォルヴァー』で、ポールと半々になるんですよ。ジョンが5曲、ポールが5曲、ジョージが3曲、リンゴが1曲って具合にね。クレジットは、あくまでもレノン/マッカートニーだったけど、なんとなくヴォーカルとってるナンバーが自分で作った曲なんだろうなと推測できてたからね。『サージェント・ペパーズ』の場合、明らかにポール・マッカートニーのリード・ヴォーカル曲の多いことが気になったんだよね。それで、子供心にもバンド内のバランスが崩れているんだろうなっていうのを感じとっちゃったわけ。

宮治: ちなみに、輸入盤で買ったんですか。リリースが早かったから…。

森川: 輸入盤で買った。でもね、確か中にステッカー、シールがついていたからそうしたと思う。あれ日本盤にはついてなかったんですよ。どうしてわかったかというと、「日本盤はシールがついてません」って『ミュージック・ライフ』に書いてあったの。僕たちの子供の頃って、シールがはやったじゃない? だから絶対に輸入盤を買わなきゃと。で、「輸入盤ってどこで売ってるの?」って聞いて回った記憶がある。まだ、当時はハンターとか知らないしさ。そうしたら、同じクラスの友人の母親の知り合いが「新宿コタニ」(CD・ビデオ・楽器販売の老舗)に勤めてるって聞いて、頼んだの。2、600円もしたんだけど。

毎日、ビクビクしてたよ。ビートルズが解散するんじゃないか心配で。

宮治: で、『サージェント・ペパーズ』でガッカリした後、『ホワイト・アルバム』はというと…。

森川: 音自体は、シンプルにはなっていたけれど、ビートルズのバラバラ感がものすごく見えたよね。あの巧みな、元気いっぱいのジョンとポールのデュエット曲がほとんどない。ジョージとポールがコーラスをつけてるのが「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」くらいしかないから。おまけに「レヴォリューション9」なんていうのが入ってるじゃない。"ナンバーナイン ナンバーナイン ナンバーナイン"なんて、仲間うちでふざけて遊んでたけどさ(笑)。「これ一体何だよ!」みたいなのがあったわけ。

宮治: 69年の幕開けから、ガッカリしたわけですね。

森川: だから、僕にとっての69年は、"ビートルズのすごく悲しい年"だったの。新年早々『ホワイト・アルバム』でガクッときて、そのあと「ジョンとヨーコのバラード」ね。「なんでビートルズが、ジョンとヨーコの個人的なラヴソングを歌わなきゃいけないんだってね。それを聴いて、僕はかなりウンザリした。活気のあるビートルズが好きだったからさ。「ゲット・バック」とか「ドント・レット・ミー・ダウン」はいいなと思ったんだけどね。

宮治: シングルとしては名曲を連発してますからね。

森川: そうこうしているうちに、ビートルズは解散するんじゃないかという不安が頭をよぎるようになってきたの。でも、「ゲット・バック」がヒットしてるから、平気なのかなとも思っていたけれど…。特にオノ・ヨーコさんが出てきてから、ジョン・レノンの個人的な活動も目立ってたからね。振り返ると、妙に悲しかったね。

宮治: プラスティック・オノ・バンドの活動のほうが多かったですものね。

森川: 毎日、ビクビクしてたよ。『ホワイト・アルバム』も今でこそ、本当に素晴らしいし、何度でも聴けるけど、当時はあまり聴けなかったんだよね。さみしくて…。

宮治: 4人がバラバラにやっているっていうのが…。

森川: 彼らも認めてるけど、『ホワイト・アルバム』ってビートルズの作品というよりも、ジョンなりポールなりのバックバンドが作ったソロの寄せ集めという感じだったんだよね。それは僕もわかってたからさ。ビートルズの4人が合わさって一緒にやっているという雰囲気がまったくしなかったの。そんな折、69年9月に『アビイ・ロード』が出たわけですよ。桜上水の「ドンキー」ってレコード屋で買ったんだけど、『アビイ・ロード』はすごくいいなと思った。名曲揃いだし、誰もやったことないようなメドレーが入っててるし、やっぱりビートルズってすごいなと心の底から思った。

レコード店「ドンキー」の広告
森川氏が通っていた桜上水にあったレコード店「ドンキー」の広告。一番乗りだよ!

宮治: そこで、少しは安心したんですか。

森川: まだ4人はやるだろうって、少しは安心した。でも、その後『アビイ・ロード』関連以外で、4人が揃っている写真があまり出てこなかったの。4人の写真って、1969年の8月22日が最後。これは俺の誕生日だからよく覚えてる。シングルの「ヘイ・ジュード」のジャケットになった写真ね。

宮治: あの時点で『アビイ・ロード』の録音も終わっていたわけですか。

森川: 終わっていた。だから、これは後でわかったんだけど、4人の写真は、1969年の8月22日が本当に最後の最後で、その前にすべて撮っているんだよね。その年は、とにかくビートルズのことばかり心配していたから、レッド・ツェッペリンとかストーンズとか、洋楽ロックの当たり年だったんだけど、もう上の空でさ(笑)。

(後編に続く)