ロック激動のイヤー、1969年にタイムスリップ!私の1969

「1969年あなたはどこにいた?」特集を思いついたのはこの年が歴史的に見ても、音楽の変遷を見ても世界規模で大変重要と思うからです。多くの既存の価値観が崩れ去り、新しい何かが生まれた瞬間といってもいいと思います。そういうダイナミックな時代を生きたわたしと同世代、または少し先輩の方々からそれは実のところどうだったのかを直接聞くことにしました。なぜなら多くのジャーナリズムが語ってきた表層的な「論文」に比べ、その時代の生き証人から、実際の個々の体験を伺ったほうがよりその時代がリアルで、かつスリルに満ちたものとして浮かび上がってくるからです。今回は大のビートルズ通であり、山崎まさよし、スガシカオらをマネージメントするオフィス・オーガスタを率いる森川欣信さんの登場です。森川さんと私は1979年に知り合いそのあとちょっとの間ビートルズ&マージー・ビート系バンドを作って遊んだ仲です。当時からビートルズに対する「愛」にはただならぬものがあった森川さんに69年の「愛」のカタチを大いに語ってもらいました。(宮治淳一)
■ 第1回 植村和紀さん [前編] [後編]
■ 第2回 萩原健太さん [前編] [後編]
■ 第3回 シー・ユー・チェンさん [前編] [後編]
■ 第4回 森川欣信さん [前編] [後編]

インスピレーションの源泉は、69年のビートルズ

森川欣信: バンドの解散で最初にショックを受けたのが、68年にザ・フォーク・クルセダーズ(以下、フォークル)が解散したこと。あれはショックだった。

宮治淳一: 日本のグループのなかでは、特別な存在だったんですね。

森川: グループサウンズって、洋楽が好きな奴らにとってはダサい存在だったの。「お前、グループサウンズなんて聴いてんじゃないよ。恥ずかしいよ、あんなの」とか言っていたわけ(笑)。スパイダースの洋楽カヴァーやゴールデン・カップスあたりはカッコいいなと思ったりしてたけど、ジャガーズとか、スカート履いたクーガーズとか、そんな奴らはちっとも面白いと思っていなかったね。そんな時に、「帰って来たヨッパライ」でフォークルが出てきたの。そもそもフォークなんてちっとも好きじゃなかったんだけども、「帰って来たヨッパライ」には「ア・ハード・デイズ・ナイト」のノイズ音が入ってたり、間奏のピアノも「グッド・デイ・サンシャイン」に似てたりしてさ、こいつら面白いなと思った。「あ、日本人でこんなことやるヤツいるんだ」と感心してたの。

宮治: 当時の日本の状況から考えるに、ものすごく先鋭的なグループだったわけですね。

森川: どんなバンドなんだろうと思ったら『11PM』に出てたの。驚いたことに、それまでのフォークのイメージを覆すような格好をしていたわけ。フォーク連中といえば、ポロシャツにコットンパンツ、コインローファーを履いて頭を七三に分けていたのに、彼らはものすごくファンキーな格好をしていたんだ。北山修さんはブリティッシュ・トラッドのスーツ姿、加藤和彦はマッシュルームカットでヒョウ柄のズボンなんか履いている。ちょうどブライアン・ジョーンズみたいな雰囲気ね。はしだのりひこも訳のわからない格好をしていた。で、はしだ氏が背が高い2人に囲まれた、フォークルならではのあのフォルムも面白かったね。ビートルズだって左利きがいて、印象的なフォルムだったじゃない。邦楽で初めて買ったのがフォークルの『紀元弐千年』。

宮治: 最初に買った邦楽LPってことですか。

「帰って来たヨッパライ」のアメリカで出たシングル盤。アーティスト名がトーキョー・フォーク・クルセダーズになっている
「帰って来たヨッパライ」のアメリカで出たシングル盤。アーティスト名がトーキョー・フォーク・クルセダーズになっている フォーク・クルセダーズ解散記念シングル
フォーク・クルセダーズ解散記念シングル

森川: そうです。ビートルズとやっている音楽は違うけれど、根底には通じるものを感じたんだよね。すごく面白いなと思った。活動期間は、たったの1年だけど濃かったよね。「帰って来たヨッパライ」が出てきて、次に「イムジン河」が放送禁止になり、サトウ・ハチロー作詞の「悲しくてやりきれない」。で、彼らが主演した映画『帰って来たヨッパライ』を大島渚でシュールなものを撮ってる。次に何をやるんだろうと思った時にズートルビーていう覆面バンドで「水虫の唄」っていうのをリリースして。この曲、イントロにベートーベンの「田園」を使ってる。とどめは『紀元弐千年』ですよ。あのアルバムが出たことによって、ザ・スパイダースの『明治百年、すぱいだーす七年』やタイガーズの『ヒューマン・ルネッサンス』とかが生まれたんだよね。日本で最初に作られたトータル・アルバムは『紀元弐千年』だったと思う。グループ・サウンズなんかのアルバム・ジャケットがそろって洋楽指向な時に日本文化をすごく上手く取り入れたヴィジュアルだった。渋谷公会堂でやったフォークルのライヴが生まれて初めて見た邦楽のコンサート。確か1968年だったかな。それで、次は何をやってくれるんだろうってすごく期待してたわけ。そしたら「解散します」って…。「青年は荒野をめざす」というシングルを出して終わったの。それも作詞家に五木寛之を起用。センスがあった。

「ノルウェイの森」と「ワダツミの木」の知られざる関係性

宮治: その頃、森川さんご自身もバンド活動をやられてたんですよね?

森川: 自分のバンドを当時やっていて、僕だけが高校生であとのメンバーが皆大学生だった。69年にはレコードも作りましたね。中学の時からビートルズの影響受けてたから"コピーよりもオリジナルだ"って精神でね。

宮治: ちなみにバンド名は?

森川: ”エプロン”。エプロンってのはヘリコプターの発着場所って意味もあるの。ビートルズやクリケッツみたいにダブル・ミーニングにしたかった。そしてレコードのタイトルが『横断歩道』っていうの。『アビイ・ロード』からインスパイアされたのね。僕は反対したんだけど、ちょうど『アビイ・ロード』が出たばかりだったからね。当時、自主制作で作るっていうのがはやっていたの。フォークルも自主制作でレコード出してたからね。その頃、銀座に一陽社という会社があって、そこがアングラ・ディスクという「100枚からレコードをプレスします」ってプランをやってたの。5曲入りのコンパクト盤を100枚作りましたね。

宮治: その5曲は、誰が書いたんですか。

森川欣信さん
森川欣信さん

森川: 全部オリジナル。俺とメンバーで書きましたね。確か全部日本語。音がひどくて聴けたもんじゃないんだけど、志は高くいこうって『アビイ・ロード』のようなアルバムを作ろうってね(笑)。

宮治: 当時でオリジナルっていうのはすごいですね。

森川: その時はメンバー同士、オリジナル曲で競い合っていたの。気分はビートルズですよ。

宮治: そういえば、森川さん作のかなり古い曲で「なんとかの森」っていうナンバーがあるというお話を聞いたことがあるのですが…。

森川: 「阿佐ヶ谷の森」ね。当時、森っていうのがメンバーにいたんだもの。「ノルウェイの森」にかけたんだけど、阿佐ヶ谷にいる森ってやつの自堕落な生活を歌にした。72年に作ったのかな。

宮治: 阿佐ヶ谷に住んでいる森さんだから(笑)。

森川: でも、曲はいたって真面目。後々気付いただけど、ビートルズからインスピレーションを受けて作ったタイトルっていくつかあるんだよね。

宮治: 代表作は…。

森川: 元ちとせのデビュー曲「ワダツミの木」のタイトルは、「ノルウェイの森」から来てるんだよ。"ワダツミの木"っていう言葉は、歌詞の中には入ってないのね。あれは「もう、タイトルを決めなきゃリリースが間に合わない!」って時に、パッと思いついたの。デビュー作だから今までにないようなものにしたいとか、彼女が奄美大島から出てきたこととか、幻想的なものにしたいとかね…いろんな思いがあったからなかなか決められなかったわけ。で、いよいよあと1時間で決めてくれっていう段階になり、「もう、どうしよう」って時にフッと"ワダツミの木"っていう言葉が浮かんだんですよ。

宮治: もうそのまま"ワダツミの木"っていう言葉が。

森川: なぜか頭の中で“ワダツミ”っていう言葉を思いついた時に「ワダツミの木」っていうタイトルも同時に出たんですよ。で、“ワダツミ”ってなんだろうと調べてみたら、“海の神”って書いてある。「これはいいじゃん!」と思って、カタカナで“ワダツミ”、ひらがなの“の”、そして漢字の“木”で「ワダツミの木」。で、それタイトルにしようとしたら、レコード会社の人に反対されたの。「きけ わだつみのこえ」じゃないけれど、戦争に関すことだと誤解されたら困るってね。で、その担当に「ワダツミの意味を知ってるの?」って聞いたら、知らないと。「“ワダツミ”っていうのはポセイドン、海の神なんだよ。いいタイトルだろう」って言ったら「あ、そうなんですか」って。それで、今は亡くなった上田現(「ワダツミの木」の作曲・作詞者)に相談したの。彼も「それはちょっとまずいんじゃないですか、誤解されませんか?」って言うから、「いや、もう絶対に行く。こんないいタイトルはないから」って強行突破したのね。でね、最近までずっと、あのタイトルは自分に降りて来たもんだと思っていたんだけど、ある日「ノルウェイの森」「ワダツミの木」って字面が似てるって気付いたの。繋がってるんだなぁと。

宮治: 潜在意識として。

森川: そう。直感でこのタイトルが出たと思ってたんだけど、人間の直感なんて、過去にあった経験や体験の積み重ねでしょ。だから「ノルウェイの森」がヒントだったんだと。そんなことは思いもしなかったんだけど、たぶんそうじゃないかって。だから、僕の場合の音楽制作におけるインスピレーションの源泉は、69年あたりのビートルズやフォークルなのかなって強く思うよ。そういうものが俺の血とか肉になっていったんじゃないかなと。だから俺のアイデアの原点はあの頃なんだよね。

宮治: 洋楽で得た発想を、まったく状況の違う邦楽制作の場で応用するっていうのは面白いですよね。いくらビートルズを真似しても、彼らを超えるものはできないわけじゃないですか。

森川: そうなんだよね。最初に曲を作りだしたのは中学生くらい。その時は俺、英語で曲を作っていたわけ。♪You don’t believe me, oh no no no♪とか♪I cry for you, I cry for you, you♪なんてね(笑)。ビートルズの歌詞から良さそうなところピックアップしてね。当時、なんで英語で曲を作ってたかというと、将来は絶対にアメリカで認められようと目論んでたからなんだよ(笑)。でも、そんなコトはあるわけもなく。あの頃はスパイダースだって、英語でわけのわからない歌詞でやってじゃない。わけわからないなんていったら、かまやつさんに怒られそうだけどさ(笑)。ま、皆、海の向こうで認められようとしていたわけでしょう。

宮治: でも結局、誰も成功することは……。

森川: そう、だから大学を卒業してレコード業界に入った時は、英語へのコダワリはまったくなかったんだよね。で、邦楽のディレクターになるって時、日本語の音楽をやりたいと思ったんだよね。日本語の美しさ深さにその頃開眼していたから。はっぴいえんどとかユーミン、RCサクセションが生み出した日本語の世界ね。海外で認められることにこだわらなくてもいいんじゃないかって。でも、曲だけは、インストになれば出ていけるかもしれないから、向こうでも通じる万能な曲を作ろうと思った。

この45年間、たぶん1日としてビートルズのことを考えていない日はないと思う

宮治: このハンター・デイヴィスによるビートルズ伝は69年に出たんですか。

森川: ビートルズのそれまでの物語って、シンコーミュージックが出した、星加ルミ子訳によるビル・シェファーズの『The True Story Of The Beatles』だけだったの。確か、邦タイトルが「これがビートルズだ」だったと思う。65年か64年かな。それこそ彼らがアイドル全盛の時の話。で、そこにはジョンとポールの出会いの話はあるけれど、話がすごくボカされているのね。ジョン・レノンの生い立ちとかが出ていない。だから、叔母さんに育てられたってことだけど、親はどうしたんだろうとかね。その辺のことがわかんなかった。で、このハンター・デイヴィスの本は、夏休みにたまたま京王デパートの書籍売り場で見つけたの。

宮治: これが出たのは69年ですか。

森川: そうですよ。最初、立ち読みしていたんだけど、すごく面白くてね、その時お金を持っていなかったので、次の日に買いに行ったの。880円と高かった。でも、瞬く間に読んだよ。ビートルズの話ってドラマチックじゃない。スチュワート・サトクリフが死んだりいろいろあるんだよね。やっぱりバンドっていうのはこうじゃなければいけないと思った。俺がジョンだったら、いつかポールのような存在に出会うんだとか思ってたから(笑)。その時17歳だから、その時すでにジョンがポールに会っているから、じゃあそろそろだなってね(笑)、そんなことを思ったりしてた。リアルにバンドを綴った本って初めてだったと思うよ。レコードを出してデビューできるってところが最高なの。今の若い子はあまり思わないだろうけど、俺たちの世代でレコード・デビューするってことはすごいことだったんだよね。

森川氏が読みふけった評伝本『ビートルズ -その誕生から現在まで-』 の実物 width=
森川氏が読みふけった評伝本
『ビートルズ -その誕生から現在まで-』の実物

宮治: 売れる売れないの以前に、レコードが出ること自体すごい。

森川: レコード契約ができるってことがすごいことじゃない。そのさらに前のビートルズの時代だったら、余計そうなのかもしれない。おそらく矢沢永吉さんもこの本を読んで燃えたと思うよ。俺も何度も読み返したね。

宮治: ちょうどこれを読んでいた頃に、ビートルズは解散するんじゃないかって気持ちも持ち合わせていたわけですよね。となると、かなり複雑だったんじゃないですか。

森川: そうだね。毎日、心配してたよ。

宮治: ウッドストックが開催されたのも、ちょうどそのあたりですが。

森川: ウッドストックは、洋楽ラジオ番組と『ミュージック・ライフ』誌で知ったんじゃないかな。ウッドストックに出ているメンツはあまり知らなかったのね。ジミ・ヘンドリックスやフーの名前は知っていたけど。今でこそビッグですけど、サンタナなんてデビューしたばかりで「サンタナ? 誰?」って。

宮治: こう見ると、後々大きくなったという人のほうが多いですね。

森川: で、そんな野外コンサートって日本ではまったくなかったから、度肝を抜かれましたよ。野外で夜通しライヴをやって、ワカモノが自由気ままにロックを楽しんでるという状況にね。そんな体験、夢のまた夢だったよね。アメリカにすら、もしかしたら一生行けないんじゃないかって思ってたからさ。当時のドルは360円に固定されていた。飛行機代なんて考えるととんでもない額になるわけですよ。あと、ヤマハに行って、ギブソンとかフェンダーを見て毎回ため息ついてましたね。それこそ車買えちゃうぐらいの金額じゃないですか。海外なんて一生行けないし、ましてやウッドストックなんて……そういうジレンマはありましたよ。「憧れのままで終わっちゃうんだろうな」というね。で、映画を観たのはその翌年。

宮治: どうでしたか。

森川: まず、その自由さに驚くよね。ジョン・セバスチャンが、途中で演奏を止めるシーンがあるでしょう。飽きちゃったか何かで。「あれ、こんなことやっていいの」と思うわけ。あと、ザ・フーが、楽器を破壊するとかね。「本当にこんなことをするんだ!」っていう衝撃。「車ぐらいの値段がするギターを、あぁなんてもったいないことするんだ」と(笑)。

宮治: 69年のビートルズに話を戻しますと、『アビイ・ロード』にはゲット・バック・セッションのナンバーは入っていなかったじゃないですか。僕ががっかりしたのはね、このアルバムにヒット曲の「ゲット・バック」が入らなかったこと。

森川氏秘蔵の映画『ウッドストック』のパンフレット
森川氏秘蔵の映画『ウッドストック』のパンフレット

森川: それはね、確か「ゲット・バック」の方が先に出そうになっていたんだよ。『ミュージック・ライフ』の広告を見る限りでは、『ゲット・バック』っていうアルバムが出るんだと思っていた。で、曲目がもうそこに出ていたの。『ゲット・バック・アンド・トゥエルヴ』だか、『…イレブン』だか、そんなアザータイトルになっていた。ジャケットも何も出ていない広告だったけど。そしたら結局、どんでん返しで『アビイ・ロード』が出たんですよ。それで、当時はもう『ゲット・バック』は出ないんだと思った。

宮治: 時系列的に後でレコーディングされた『アビイ・ロード』が先にリリースされたと。

森川: あと、ちょうどその時期、ブライアン・ジョーンズが死んじゃったのね。69年の7月の夏休み前ね。ブライアン・エプスタイン(ビートルズの元マネジャー)は死んでいたけどさ、バンドのメンバーが死んだっていうショックはすごいよね。まあ、その直前に、ブライアンはストーンズを辞めていたけど、それもビックリだったよ。バンドっていうのはメンバーが入れ替わっちゃいけないと思っていたからさ。辞めたって聞いて、すぐ死んだってね、二重のショックでした。

宮治: で、森川さんの不安が的中し、翌70年の3月にポールがついに脱退宣言をして、ビートルズは終焉を迎えるわけですが…。

森川: それは朝日新聞の夕刊で見たんだけれど、とにかく信じられないくらい落ち込んだ。わかってはいたんだけど「あ、とうとう来たんだ」と。でも、最初にジョンが辞めると思っていたんで、そこはびっくりした。

宮治: 60年代前半にビートルズが登場し、それからたったの3、4年後にはクリームやジミ・ヘンドリックス、ドアーズとか、いわゆるニュー・ロックと呼ばれる連中が出現し、そしてツェッペリンやストーンズが素晴らしい作品を次々に発表するというね。あの時代に生きた音楽ファンって、幸せですよね。

森川: 人類の歴史ってとてつもなく長いけどさ、20世紀というたったの100年間に飛躍的に全てのテクノロジーが発展したじゃない、もう何から何まで。思うに、あの時期はポップ・ミュージック全体がまさにそういう時期だったような気がするよね。あの数年間にビートルズがポップ・ミュージックのすべてを発明したんじゃないかなと思うフシはあるよね。

宮治: 当時のレコーディング技術もすごいスピードで進んでいったんですよね。さらに、音楽自体も劇的に進化した数年間でしたら、サウンドも楽曲も演奏技術も録音も、3、4年違うだけで、まるっきり異なるという。あと、巨人が強いと阪神もすごいという仕組みと同じで、すごいのがいると、それを超えようという切磋琢磨する勢力もいっぱいでてくるですよね。だから、ビートルズに負けないぐらい素晴らしい音楽が同時にいっぱい創出したんだね。

森川: あの頃のストーンズって、ものすごく頑張っていたと思う。『サタニスティック・マジェスティーズ』なんて評価が低いけど、僕は素晴らしい作品だと思うよ。ビートルズがいなくなってから、ストーンズはリリースする曲が全部同じになっちゃったような印象はあるね。

宮治: ビートルズがほぼ日本に上陸してから45年。ということは、森川さん自身ビートルズ歴45年ということですか。

森川: そうなんだよね。で、この45年間、たぶん1日としてビートルズのことを考えていない日はないと思うのよ。

宮治: え、それはどういう場面でですか?

森川: 毎朝服を選ぶとき時、今日は66年のビートルズっぽいぞ、とか。レコーディングで煮詰まった時、ポールならどうするかな?とか。部屋や会社のいたるところに写真が飾ってあったりもするからかもしれないけれど…。なんかのアイデアのヒントとか、日々頼ってる。

宮治: ポールもリンゴも今や、ビートルズのことはあまり考えていないですよ(笑)。

森川: そういえば、“中学2年で人生の方向性が決まる”ってユーミンが何かで言ってた気がする。甲本ヒロトも同じこと言ってたような。14歳で人間の人生が決定されるんじゃないかってね。つまり中1、中学に入って最初の頃は、小学校から上がって…。

宮治: 小学7年生。

森川: まだ、ちょっと子供の延長線上にあるじゃない。それで中3になると受験でいっぱいいっぱいに。だから中2の頃が、ちょっとほっとした時期だと思うんだよ。

宮治: 気持ち的に余裕があるから、新しいものに対する知的好奇心がものすごくわくということですよね。だから、この頃に何に興味を持つかということが…。

森川: 僕の場合は、中2の時にビートルズが来たんだ。だから、ビートルズとの出会いこそが、自分の人生において決定的な出来事だったと思うよ。女の子に恋したのも14才の時だったよ。

宮治: 本日は貴重なお話、ありがとうございました。


森川欣信

森川欣信

1952年東京生まれ。ワーナー・パイオニア、キティ・レコード勤務を経て独立、杏子、山崎まさよし、スガシカオ、元ちとせ、スキマスイッチ、秦 基博など今をときめくミュージシャンが所属するマネージメント・オフィス、オフィス・オーガスタを主幹する。大のビートルズ通としても広く知られ、ブートレグ・ビートルズの武道館公演やクオリーメンの初レコーディングなど趣味の範疇を超えてビートルズへの愛を表現している。