佐々木雄三: チェンさん自身、60年代初頭から中盤ぐらいにかけて、アメリカン・スクールでロックンロールの洗礼を受けられたわけですよね。当時の思い出を聞かせてください。
シー・ユー・チェン: 当時、日本ではマイナー調の歌謡曲とか演歌が全盛の時代ですよね。だから、ロックが入ってくる前は、聴ける音楽って映画音楽くらいしかなかった。「エデンの東」とかね。要するに、メロディアスでキレイな曲っていうと、もうそれしかない。その後、ロックが入ってきたんです。イギリスからクリフ・リチャードやらシャドウズ、アメリカからはベンチャーズ。それと、忘れてならないのはエルヴィスね。もうプレスリーが当時の若者のお手本。エルヴィスを真似て、アイビーリーグ風のボタンダウンのシャツを着て、細身の白いジーンズを履いて、バイタリスのヘアリキッドを頭につけるってのが、当時のクールだった。
佐々木: そういう格好をするだけじゃおさまりがつかないというんで…
チェン: そう。それで、学校で女の子にもてるにはどうしたらいい?ってなり、これはバンドしかないと(笑)。
佐々木: これは万国共通なんですね。ハイスクールではダンス・パーティーみたいなこともあるわけですか?
チェン: もちろんあります。ただ、その場にDJなんかいなくて、ゲストバンドとして米軍基地からバンドが来たりするわけですよ。で、当時は、フィリピンやインドネシアの留学生が作った東南アジアのバンドが圧倒的に先を行っていたんです。彼らのほうがカッコよかったかな。なぜなら、日本に来る前、彼らは生のシャドウズを体験しているんですね。当時のシャドウズって、東南アジアでよくツアーをしていたの。実際のシャドウズを観て育っているから、なかなかキマってるんですよ。タイトなシャークスキンのシルバーの上下のスーツを着て、皮のブーツを履いて、細身のネクタイを締めてね。あと、ギターを持ちあげて弾いたり、ステップでグルグル回ったりする“シャドウズ・フォーム”っていうのがあってね。東南アジアのバンドは皆やっていた。
佐々木: それが大体、63年か64年くらいの話ですよね。
チェン: その後はビートルズが登場して、段々髪の毛が長くなり、ストーンズが出て来て、ちょっとワルっぽくなるっていう感じしょうか。で、今になって思えば、当時ビートルズが価値観を決める先導者でしたね。かわいらしいポジションから徐々に成長して、インドに傾倒したりね。だから、彼らの影響で精神的にも成熟していこうという風潮がロックファンの間にはありましたね。そうだ、当時のフィンガーズのバンドワゴンを“マジカル・ミステリー・ツアー”のバスみたいにペイントしていました。シゲルとか凝り性だから、完コピでしたね。
佐々木: それは目立つわ(笑)。やっぱりザ・フィンガーズは進んでいますね。当時って、エルヴィスがあって、ベンチャーズやシャドウズがあって、ビートルズがあって、さらにニュー・ロックとかサイケデリック…と数年間の間に目まぐるしくシーンが変わっていくわけですよね。で、チェンさんのお話を聞いていると非常に自由でフレキシブルだな。それまでベンチャーズとかシャドウズを聴いていた人が、ある日突然、やっぱりクラプトンだ、スーパーグループじゃないかとかね。シーン自体も受け手もかなり劇的に変化していく感じがします。今みたいに段々変化していくというんじゃなくてね。例えば2005年と2009年とどう違うんだと。
チェン: やっぱり情報を発信する仕組みが、今みたいにデジタル化されてないからね。すべてがアナログだったから、日本に入ってくるまで、半年とか1年かかった。そのスピード感が逆に、良かったのかもしれない。遠く離れた日本では、想像する時間があったわけですよね。それってすごくイマジネーションが広がるわけですよ。憧れ感も醸成されますしね。大きな誤解や勘違いも含め(笑)。
宮治淳一: その過程こそがオリジナルな表現を生む原動力になったんでしょうね。

シャドウズ/F.B.I
チェン: そうだよね。あの音はどうやって出すんだと練習したり、研究したりね。そういう事に対する情熱って本当に大切だよね。
佐々木: ちなみに当時の最新情報というのはどこから入手されてたんですか?
チェン: やっぱり米軍経由が多かったかな。あと当時、ユーミン(松任谷由実)がザ・フィンガーズの大ファンで、軍のレコードショップで入手したものをいち早く持ってきてくれたんだね。「これ、ツェッペリンだよ」とかって。だから僕たちは、けっこう早く追いついてたって感じはありますね。
佐々木: チェンさんはザ・フィンガーズに加入される前にディメンションズを結成されるわけですね。ディメンションズの活動の中で、フィンガーズの成毛滋さんと知り合ったんですか?
チェン: ディメンションズとザ・フィンガーズが対バンでよく一緒にやってたのね。それで知り合ったの。で、加入のキッカケは、シゲルにルイズルイス加部(ゴールデン・カップス)みたいな激しく動き回るベースを弾けるやつがいないかって言われたことかな。「そんなのなかなかいないな」って答えたんだけど、「だったらお前、リードギターやってるんなら弾けるだろう」って言うんで、それで(笑)。ギターを弾いていたのにいきなりベースをやらされたわけです。
佐々木: けっこう練習したんですね。
チェン: “鬼の特訓男、シゲル”みたいな(笑)。メトロノーム使って、毎日3時間もやらされたよ。あいつが葉山に別荘を持っていたから、合宿もしたよ。それで皆、上手くなっていきましたね。あと、シゲルってドラムも叩くから、当時のドラマーのビートが軽いんで、重く叩けるように猛特訓をさせていましたね。彼はオルガンもドラムも何でもできたからね。
佐々木: 当時のザ・フィンガーズって、いわゆる日本のGSブーム、歌謡界のブームにある程度乗っかりつつも、実際のところは本物志向だったわけですよね。やっぱりブラインド・フェイスを観に行きたがる方々ですから当然、自分たちの本当にやりたい音楽っていうの別にあったわけですよね。
チェン: ヴァニラ・ファッジが、もっとも自分たちがやりたかったことに近かったですね。僕がもう、ヴァニラ・ファッジ・フリークだったから。「ヴァニラ・ファッジをやるなら、俺、ザ・フィンガーズやってもいいよ」っていう条件で(笑)。
佐々木: 例えば、ヴァニラ・ファッジのような音楽を、ザ・フィンガーズとしてリリースすることは難しかったんですか。
チェン: 難しかったね。当時は作詞は誰々センセイ、作曲家は大御所の誰々でという世界だから。この路線だったら、いくら売れるかみたいな世界ね。事務所は、僕たちを「坊ちゃんが集まった貴公子バンド」みたいな扱いでしたから。でも、僕たちの髪の毛は段々伸びていくんですよ(笑)。当初は、カワイコちゃんっぽくやられていたのが、皆反骨的になっていって、段々髪の毛を伸ばしていくという感じね。最後にはヴォーカリストとして沢田研ニに似たのが連れてこられて、これでレコーディングしようって言われたんだけど、僕ら「こんなヤツとやりたくねぇよ!」ってふてくされちゃってね。あと、シゲル、僕、蓮見がそれ以外のメンバーとはまったく噛み合わなくなってきたからね。バンドや音楽へのモチベーションに温度差があったのかもね。就職とか結婚とかが大事になちゃったわけだよ。で、そのまんま解散。

ザ・フィンガーズ:シングル「失われた世界」
山上路夫作詞/シー・ユー・チェン作曲

ザ・フィンガーズ/サウンド・オブ・ザ・フィンガーズ

フィンガーズの別働グループ”Vanilla Cream”の成毛滋(G.Kb. 左)、松本幸三(Drs. 右上)、 シー・ユー・チェン(Vo.B. 右下)。('69年2月)

Vanilla Creamで、右手でオルガン、左手でフェンダー ジャガーを弾く成毛 滋。('69年6月)
佐々木: その後、ブラインド・フェイスを観にアメリカに渡って、ウッドストックも体験してしまうと。で、帰ってこられて、ザ・フィンガーズはもうなくなっているわけですが、その後は。
チェン: デ・スーナーズっていう、フィリピン人バンドのドラムにエディ・フォルトゥーノ(Eddy Fortuno)っていう、インディアンみたいな髪の毛をした、めちゃくちゃにカッコイイやつがいたのね。ヴァニラ・ファッジを完璧にコピーできるんだ。で、デ・スーナーズが解散していたから、フォルトゥーノと何かやろうってなり、ちょうどオルガン奏者の柳田ヒロっていうのがいて、彼とエディでトリオを結成して活動してましたね。六本木の「スピード」っていうクラブで演奏していました。音楽プロデューサーの川添象郎さんにも気に入ってもらってました。インプロヴィゼーション主体で、カッコ良かったと思いますよ。ただ、レコーディングはしてないですね。
佐々木: それは聴きたかったですね。残念です。ウッドストックを体験された後の日本での活動って、体験前に比べて気持ち的に随分変わりましたか? 渡米以前のザ・フィンガーズの様子から察するに、水を得た魚のように張り切って活動されてたのかなと。
チェン: ロックのフィーリングがかなりわかってきたという感じはありましたね。日本はどうしても分析/理論志向じゃないですか。ロックもそうだし、ジャズ・ミュージシャンなんて特にそうだしね。あと、テクニック至上主義ね。こう、気を抜いて音をグルーヴするっていう感覚が、当時の日本からは想像できなかったんだよね。だからやっぱりウッドストックでそういうのを観ると、「これなんだっ!」ってなりますよ、やはり。「音を“ためる”っていうことはこういうことだったんだ!」とかね。例えば、エフェクターなんて使わずに、そのまんま直でダブルヘッドにアンプを繋いでやったら、音すごいじゃんって世界。何かそういうのを徐々に理解し出した時代ですよね。
宮治: 成毛さんはその当時はフライド・エッグなんですよね。ベースが高中正義さんで、ドラムが角田ヒロさんというスーパーバンド。
チェン: そうです。メンバーはオーディションで探してましたね。で、高中はもともとギタリストなんだけど、ベーシストにしちゃうわけでしょう。「お前ギター巧いね。でもベースやれ」って(笑)。
宮治: チェンさんと同じパターンだ。得意なんですね、それが(笑)。野球でいうところのコンバート。
チェン: そうですね。きっと、「リードギターではお前、俺に勝てないだろうって。だったら、ベース弾け」っていう。シゲルって、本当の完璧主義者だったね。自分の部屋に録音用の機材を全部持ちこんでいたからね。あとベッドサイドに、指の握力を強くするための指立て伏せ用のマシーンなんてのもあったよ。それで、1日やっぱり6時間から8時間くらい、要するに起きてから寝るまでギターを持って練習していたんじゃないかな。寝るときでさえも、練習の課題曲のテープを聴いていたくらい。だから絶対に勝てないですよ。
宮治: それに合わせなきゃならないっていうメンバーも大変ですよね。
チェン: それに合わせられるやつだけが、彼の家に行くことが許された(笑)。かわいそうだったね。皆、ついていくので精一杯だったからね。ギタリストって、毎日最低でも1時間半は練習しないと、現状維持できないわけですよ。上手いやつは3、4時間くらいは練習するわけですよ。で、あいつは6~8時間くらいやっていたから。だから、厳しかったよ。要するに、自分の厳しさを理解してついてくるヤツはすごくかわいがったけども、怠けたやつはすごく嫌ってたね。そんな感じの完璧主義者。
宮治: 自分がやっていることを、人にも求めるということですよね。

デ・スーナーズ/リズム&ブルース・ベスト・4

アルバム:ポートレイト・オブ・デ・スーナーズ

第1回10円コンサートで、参加したミュージシャン全員によるアンコール・セッション(左端は山口冨士夫)。('69年9月)
チェン: そうですね。「俺にできるのなら、お前にできないことなどない。こうやればいいんだ」って。実は、心の優しい、すごくいいヤツだったんですよ。でも、いやあ、惜しいですよ。もっと生きていてほしかったですね。
宮治: 69年に初演を行ったロックミュージカル『ヘアー』にも関わられてるんですよね。
チェン: はい。その頃、オーストラリアのジム・シャーマンっていうディレクターのアシスタントをやっていましたね。「俺が言っても皆わからないから、次はこうだ、こうだってお前が訳して指示出してくれ」っていう感じ。
宮治: 演劇方面に関心があったんですか?
チェン: たまたまです。これも川添さんがプロデュースしていたんですよ。「バンドメンバーのオーディションに出ろよ。俺があれプロデュースするんだから」って。それがキッカケ。
佐々木: ウッドストック的な価値観に基づいて創作されたミュージカルだったんですよね。ベトナム戦争や徴兵制がテーマで…。
チェン: 企画者の方たちは、アメリカでやっていたのを観て、日本でもこういうのをやりたいっていうのがあったんでしょうね。でも、日本には、徴兵制度もなかったし、ベトナム戦争とかで実際に身内がどんどん徴兵されていくというリアリティも持ち合わせていなかった。シリアスに悩む部分がなかったんです。どちらかというと、国がどんどん豊かになっていった高度成長期でしたから。それを日本でやっても伝わるのかなっていう疑問はありましたけど…。で、「徴兵カードを燃やす」っていうのが最後のクライマックスなんだけど、その意義を日本人どれだけ理解できるかというね。それよりも、全員が全裸になるシーンがありまして、そこだけが一人歩きしちゃってね。ベタな芸能ニュースで「警視庁が取り締まるかどうか」って紹介されたりしてね。まあ、皆ピュアに一生懸命にやっていたんですが…そういう扱いってどうかなと。で、その他にもいろいろ問題が起きてね。それで全部お終い。ウチの親からも「お前もう音楽やめろ!」ってね。
佐々木: 将来を心配されたわけですね。
チェン: 「アメリカの大学も行かない、留学もしない、バンドばかりやる、ミュージカルで問題に巻き込まれる。もうそんなんだからお前はダメだ。見込みない! とにかく働け」と。それで、また音楽に近いけれども、ちょうどデヴィッド・ボウイのステージ衣装をやっていた山本寛斎に「コンサートの衣装をやるか?」って。それで「ああ、面白そうじゃない」と。それで、彼のところでアルバイトで働くようになったんです。
佐々木: 今のチェンさんの入り口みたいな経験ですね。そのとき印象に残っているエピソードを教えてください。
チェン: デヴィッド・ボウイのステージで、パッと衣装替えをするわけですよ。歌舞伎のアレと同じやつ。僕が、衣装の両側をパクっと引っ張る担当だったんですね。で、ニューヨーク公演かな、間違えて、僕が衣装2枚引っ張ったりしてね(笑)。すごく怒られました。本番ですからね。そんなのを経験していたら、「あ、ファッションって面白いな」って思ったのかな。シアトリカルな(Theatrical/演劇の、舞台の)ファッションをもっと勉強したくなり、そこからどんどん違うことをやるようになっていったっていうのがありますね。
宮治: チェンさん自身、余りにも多岐に活躍されてますが、音楽が1つの出発点であることは間違いないわけですね。

ロックミュージカル『ヘアー』
チェン: 音楽が出発点。ベーシックにあるのはいつも“音”ですよ。若い頃から、常に何をしようかなっていう時に、やっぱり音があるんですよ。僕がやってきた建築、レストランに関してもそう。「この音がかかっている空間」っていうのはいつも気にしていますね。だから、ウッドストックの経験っていうのはまさにそれですね。常に音がインスピレーションになるっていう。説明する必要がないじゃないですか。言葉に置き換える必要もないし。
宮治: 本日は素晴らしいお話の数々、ありがとうございました。
レコード・ジャケット提供:ジスボーイ
シー・ユー・チェン
CIA Inc./ the Brand Architect Groupの代表取締役。上島珈琲店、青山フラワーマーケット、三菱東京UFJ銀行の
PBO店舗、大崎Thinkpark、出光,98年のユニクロ変身、等の
プロジェクトを成功に導いたブランド戦略会社を率いている。
現在は、持続維持やエコロジーを取り入れたコミュニティ開発、
グリーン・ブランディング、ソーシャルウェブ・マーケティング等
に取り組んでいる。
著書:「インプレサリオ 成功請負人」(ダイヤモンド社)
東京建築士会住宅建築賞受賞。

