宮治淳一: 69年って、ロック、ポップ・ミュージックのターニング・ポイントだと言われますが、皆それぞれが後になって思い返してみると実はこうだった、という新たな発見もあると思います。日本では、本当のところはどうだったかなというのを掘り下げていきたいというのが今回のインタヴューの主旨です。
植村和紀: それじゃ、なんか生き証人みたいじゃないですか(笑)。
宮治: 米英から10,000キロも離れた日本に、ロックやポップ・ミュージックがどのように入ってきて、リアルタイムで体験できた当時の若者はどのように受け止めたかを、検証してみたいなと。で、まず、今回の企画のご登場者全員に聞いているんですが、「1969年、あなたはどこにいましたか?」
植村: 実家が千葉県の勝浦市なんですよ。親父が田舎教師をやってた関係で、勝浦にいましたね。69年は高校1年でした。勝浦から千葉県の茂原市にある長生高校に1時間半かけて通ってました。地元の勝浦高校が水産系だったので、長生高校が一応、一番近い進学校だったんです。
宮治: でも1時間半。
植村: 一番近くで1時間半。でも、茂原市にはレコード屋が2軒ありましたね。勝浦にはレコード屋は、1軒しかなかった。水野楽器っていう、ほとんど演歌と歌謡曲しか置いていないお店(笑)。漁師町だから、8トラックの北島三郎全集とか。
宮治: 茂原に行くようになってからは…。
植村: もう買いまくりでしたね。当時はレコードってかなり高価だったんですが、軍資金は裏でバイトをやって貯めてたんですね。
宮治: 高校時代からですか?
植村: いえ、中学から。勝浦って、サザエ、トコブシ、アワビ、とかがよく獲れるんです。もちろん、禁漁区なんだけど、親父の教え子に漁師が多くて、先生の息子ってことで特別許可(笑)。プライベート・ビーチみたいなもんでしょうね。「まあいいや、子供だからって(笑)。サザエくらいしか獲らないだろう」と想定していたと思うんですが、僕5メートルくらい潜れたから、もうアワビをバンバン獲って卸す卸す。1日で、1バケツ獲れまして、5,000円くらいにはなりましたね。だから、LPは余裕で買えますね。ひと夏で10万円くらいいきましたね。もう時効ですから、今だから言えますけどね。

69年について語り合う植村和紀氏(左)と宮治淳一氏(右)

当時、勝浦から茂原まで1時間半、勝浦から銀座まで3時間半を要したとか
宮治: いやー、なかなかいい話ですね。地元の強みを生かしたわけですね。
植村: 地元と親父の力とをフルに活用したわけです。(特別に許可を出してくれた)漁師さんも、まさかアワビまで獲るとは思っていなかったでしょう。トコブシ、サザエが中心でしたからね。昔は、3、4メートルひと潜りして、棚をさらうとアワビがあってね。感触でわかるんですよ。で、ターゲットを絞ってもう一回潜ると、ざっくり。すごい時代でしたよ。他にもトウモロコシ焼きとか、貸ボート屋の手伝いとか。とにかく勤労少年でしたね。69年当時って、教師だった親父の月給が、35,000円ぐらいでしたから、僕がひと夏10万円稼ぐってすごいことだったんです。親父に5万円やって、自分に5万円。親父なんかもう喜んじゃって(笑)。その代わり僕は中耳炎で大変でしたけどね。潜りすぎで。
宮治: それはレコードを買うためだけに?
植村: そうですね。だってお東京のレコード屋に行けば、お店ごと買いたくなるじゃないですか(笑)。67~69年のレコード屋なんて特に。宮治さんもわかると思いますけど、全部が全部本当に手に入れたくて選べないんですよ。あと、レコードの便利屋をやっていたので、友人たちのお金を集めて、千葉の勝浦から東京まで、輸入盤の買い出しに行ってたんですよ。3時間半かけて。主に、銀座の日楽(日本楽器=現在のヤマハ)でしたね。
宮治: よく千葉からいっぱい担いで来る人いるじゃないですか、おばさんとか。
植村: 行商のおばちゃんですね。その逆ですね。買い出し列車(笑)。
宮治: ヴィニール袋に日本楽器って書いてあってね。あれがいいんですよ。あれを田舎で持っていると自慢できるんです。中身は一緒なんだけど。
植村: そうそう。輸入盤って、当時は高かったじゃないですか。船便で2500円あたり、エア便だと3,000円以上しました。一方、国内盤は1,800円程度でしたから。当時は国内盤を買うしかない。
宮治: 今のCDの輸入盤って1,500円~2,000円くらいですよね。で、ラーメン一杯80円時代の3,000円ですからね。かなりの贅沢品ですよ。ありえないですよね。中3の時、自分がレコード買えるなんて誰も思ってない。何とかして買えるだけの資金を数ヶ月で捻出したとしても、それを1枚買うと、また半年や1年は何も買えないわけですよ。そんな中、アワビ漁でレコードを買ってしまうとは(笑)。
植村: いい時代でしたね。
宮治: 69年4月に高校に入学してから、いわゆるクラブ活動はしていたんですか?
植村: 部活は、生物部に入ってました。主に食虫植物の研究をしてましたね。茂原市は、湿地帯でして、八積湿原って有名なんですよ。僕の3年下の後輩が、文部大臣賞を取ったくらい優秀な部。そこで、食虫植物の研究をずっとやってましたね。でも、ロックが好きなので、2年生の時にロック研究同好会ってのを作ったんですよ。初代会長が僕。
宮治: 何人か集めたんですか?
植村: もちろん、15人くらいの有志を。ロック研究同好会を作ったのは、僕がたくさんレコードを持ってたから。で、放送部が借りに来るわけですよ。メジャーどころはほとんど持っていたから。皆でレコード鑑賞会やろうよって、音楽教室を借り切ったりね。
宮治: 卒業アルバムに載るくらいのオフィシャルな部活だったわけですね。
植村: 音楽の先生を顧問につけていましたから。
宮治: 話を戻しますと69年という年は、英米で新しいスタイルのロックが生まれ、ビートルズが最後のアルバムを出し、ツェッペリンがシーンを席巻と、歴史的な出来事がたくさんあったわけです。植村さんにそれらを投影された場合、69年ってひとことで言うと、自分史の中ではどういう位置づけですか。
植村: とにかくそのあたりはレコードを買いまくった時期ですね。漁で得たお金で。68年ってデビュー組が多いんですよ。68年にデビュー、翌69年に1stアルバム、2ndアルバムという流れでしょうか。とにかく、68、69年のアルバムは全部買おうと。そのくらいアツかったですね。とにかく、全部買ってやろうと思ってましたね。特にニュー・ロック、アート・ロックというの名つくものはすべて。それが主義だったんですよ。
宮治: ツェッペリンのデビュー作も、日本でリリースされたのは。
植村: 69年7月です。確か20日だったかと。ちょうど、高校1年の1学期の終業式の日だったんですよ。昔でいうところの通信簿をもらう日。
宮治: オリジナル盤は69年の1月の発売でしたが、日本ではかなり遅れてリリースされたんですね。
植村: 半年遅れなんですね。茂原にある和国屋っていうレコード屋で買ったんです。まだ覚えてますよ。雨が降って、雷が鳴って、ちょうど梅雨の明ける頃。友達と通信簿を見ながら、飲めないビールで、「頭に来たー、ビールでも飲め!」って。それで家に帰って来てぐったりしてたところ、一曲目「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」のイントロでジャーンと衝撃が走っちゃったわけです。これはすごいぞと。これはもうツェッペリンしかいないと。すごかったですね。特に日本グラモフォン盤は音が良かったですね。ツェッペリンはリアルタイムで聴いていました。

レッド・ツェッペリンのファースト・アルバム

ロック研究同好会会報「R(あーる)」
植村: あと、ロック研究同好会では、勢い余って1971年、高校3年の秋にはっぴいえんど、ブルース・クリエーション、あんぜんバンドを呼んじゃったんですよ。主催ナウ・ミュージック・メーカーズ『ナウ・ミュージック・トライ1・コンサート』ってイベント名で。
宮治: このナウ・ミュージック・メーカーズとは?
植村: 僕らが勝手に作った団体。でも、茂原市民会館でやったって、ちゃんとはっぴいえんどの本にも載っていますからね。レコード屋が、和国屋と好音堂ってあったんですけど、両方のお店に当時10万円ずつ出してもらってね。はっぴいえんどは『風街ろまん』を出したばかりですから、もう全盛期。画期的だったと思います。でも結果は少し赤字でした。
宮治: 今考えたらすごいことですよね。あの、はっぴいえんどを高校生が招聘するなんて。

ロックフェスのさきがけ
『ナウ・ミュージック・トライ1・コンサート』のフライヤー

伝説のコンサートのチケット


