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FACTORY RECORDS Communications 1978-92特集

DISC 1

1. JOY DIVISION「Digital」

JOY DIVISION「Digital」

ファクトリー・レコーズが贈る初のアナログ盤のオープニングを飾ったナンバー。デビュー以来、低迷を続けていたジョイ・ディヴィジョンに、ようやく成功をもたらした1曲でもある。彼らはこの曲で、プロデューサーのマーティン“ゼロ”ハネットとの関係をスタート。幸運にもこの「Digital」は、たまたまハネットがお気に入りのエフェクター、AMSディジタル・ディレイを初めて手に入れてからわずか数日後の1978年10月に(グレーター・マンチェスターのロッチデールにある)カーゴ・スタジオでレコーディングされたもので、後に“a certain disorder in the treble range/高音域における確かな無秩序”と称されたハネットのプロダクション・サウンドを象徴する代表曲となった。この両A面の7インチ・シングルには、ほかにもジョン・ドウイ、キャバレー・ヴォルテール、そして初期のバンド時代のザ・ドゥルッティ・コラムも参加。“Fac 2”(ファクトリーの2作品目/Fac1はイベントとポスター)となったこのアイテムは、母親から5000ポンドの資産を受け継いだトニー・ウィルソンの資金援助を受けて制作され、ヒート・シール(熱融解)仕様のプラスチックの見開きジャケットに収められた。さまざまな要素が詰め込まれたそのジャケットのデザインは、ピーター・サヴィルお得意のグラフィックによるもの。わずか5000枚しか生産されず、またたく間に完売。なお、短くも鋭利なナンバー「Digital」は、1980年5月2日に行なわれたジョイ・ディヴィジョンのファイナル・ライブで披露された最後の曲でもある。


2. CABARET VOLTAIRE 「Baader meinhof」

CABARET VOLTAIRE 「Baader meinhof」

シェフィールド出身、実験的なエレクトロニックを鳴らす3人組、“キャブス”ことキャバレー・ヴォルテール。彼らは1978年6月2日、ラッセル・クラブでのオープニング・イベントにて、ファクトリーのラインナップとしてパフォーマンス。しかしその後、同年11月にラフ・トレードよりデビューEP「Extended Play」をリリースした。2 枚組7インチ・シングルでリリースされた「A Factory Sample」(Fac2)のD面に収録された「Baader Meinhof」は、彼らにとって2枚目のアナログ。レコーディングは彼ら自身のスタジオ、ウェスタン・ワークスで行なわれた。メンバーのステファン・マリンダーは、マイケル・イーストウッドによるインタビューでこう明かしている。「我々はすでにこの『Baader Meinhof』という曲を完成させていて、世に出したいと思っていた。でも『Extended Play』に入れるには、どうもしっくりこなかったから、(Fac 2として出せたのは)いい機会だったよ。『Sex In Secret』(同じくFac 2のD面に収録されたナンバー)はFac 2のために特別に作ったんだ。どっちの曲も、特にタイトルはあえて挑発的なものを意図して付けたわけだけど、ファクトリーのセンスに合っていたと思うよ。(この作品には)トニー(・ウィルソン、ファクトリーの共同創始者の1人)のシチュエーショニスト(状況主義者)としての感情があらわに示されていると思うね」。そのままファクトリーにとどまることも考えられたキャブスだが、結局、アルバムの融資を最初に申し出たのはラフ・トレードだった。


3. A CERTAIN RATIO「All Night Party」

A CERTAIN RATIO「All Night Party」

ドラムレスの4人組、ACR(A CERTAIN RATIO、ア・サーティン・レシオ)は、1978年の後半に、ジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーのマネジャーだったロブ・グレットンを介してファクトリーに紹介され、その後、トニー・ウィルソンとアラン・エラスムスがマネジメントを手掛けた。このファースト・シングルをレコーディングした当初は、ブライアン・イーノやワイヤー、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに影響を受けていたという彼ら。しかしその後、バンドはパーラメントやザ・ポップ・グループにも同様にのめり込み、ドラマーのドナルド・ジョンソンの加入によって、ファンキーなグルーヴが付加。「興味を引かれたんだ。何がって、彼らが正しいリズムを作るのに、まったくもってデタラメな楽器を使っていたことにね。俺は、彼らを自由にして他のことをやってもらうために、加わりたいと思ったんだ」とジョンソン。その変化は、彼らのカセット・アルバム『The Graveyard & The Ballroom』(Fact16)に収録された「All Night Party」のライブ・ヴァージョンで顕著に聴き取ることができる。


4. OMD「Electricity(Factory version)」

OMD「Electricity(Factory version)」

(リバプールの近くにある小さな半島)ウィラル出身のデュオ、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)。彼らが、ハネットと共にデビュー曲をレコーディングするため、(グレーター・マンチェスターの)ストックポートにあるストロベリー・スタジオに入ったのは、結成からわずか数ヶ月後のことだった。しかし、このセッションは一筋縄ではいかなかった。アンディ・マクラスキーは後に、ジョン・クーパーに対して「ハネットは変わり者で、俺たちをひどく恐れていたね。ある時、彼は机の下にもぐりこんで眠りについたんだ。俺たちは、完成したどっちのバージョンも気に入っていなかったよ。その良さを理解するのに、数ヶ月はかかったね」と語っている。実際、Fac6としてリリースされた「Electricity」は、オリジナルのデモ・ヴァージョンで、ハネットによるミックスはDinDisc(80年代初めに短期間だけ存在していたヴァージン・レコード傘下のレーベル)のリイシューに使われた。楽曲は論評家たちに熱狂的に受け入れられ(「すばらしくメロディックなシンセサイザー・ポップだ」とNMEは評価)、サヴィルの手掛けた傑作ジャケットと比べても遜色がないと評された。ちなみにこのジャケットは、ヤン・チヒョルト(ドイツ出身のタイポグラファー/カリグラファー)の後期のタイポグラフィを、ダークな背景に黒のサーモグラフィーのインクで印刷したもので、点字がモチーフとなっている。OMDはファクトリーの祝福とサポートを得て、9月にDinDiscと契約。サヴィルも社内デザイナーとしてDinDiscに参加している。


5. JOY DIVISION「She’s Lost Control」

JOY DIVISION「She’s Lost Control」

ジョイ・ディヴィジョンのデビュー・アルバムは、ストロベリー・スタジオにて3週間かけてレコーディングとミキシングが行なわれた。ウィルソンの見積もりでは、費用は1万ポンドとのこと。同作は、初期のインディ・アルバムの中でも、作品としてすばらしい価値を持つ1枚として、バンドおよびプロデューサーのいずれもがメディアの称賛を得ることに。NME誌は“英国産ロックの傑作”と評し、一方でMelody Maker誌は“今年のデビュー・アルバムの中で、英国の白人ものとして、最高傑作の1つに十分なりうる”と絶賛。とはいえ、当時、インディー作品の流通はまだ制限されており、年末の時点で、ファクトリーはまだガレージに初回盤の半数にあたる1万枚もの在庫を抱えていた。周知の通り、バンドの中には、明確なビジョンを持つハネットのプロデュースを嫌っているメンバーがいた。ピーター・フックはこう弁明している。「それを嫌っていたのはバーナードと俺さ。俺たちはいつもアンプの前に立って、パワーを補給していたようなもんだったからね。マーティン(・ハネット)はそれをより難解にしたんだ。あの頃の年齢じゃ、俺たちも難解さなんて持ち合わせてないからさ。それはマーティンが教えてくれたことの1つだったんだ。もし、バーナードと俺で『Unknown Pleasures』を作っていたら、それほど長く持たなかっただろうし、深みも出なかっただろうね」


6. THE DISTRACTIONS「Time Goes By So Slow」

THE DISTRACTIONS「Time Goes By So Slow」

何かと過小評価されがちなマンチェスター出身のニューウェーブ/ポップスの4人組、ザ・ディストラクションズ。彼らは、OMDがメジャー・レーベルとの契約や基本給を得ることを見越してファクトリーから援助されていたのと同様に、1979年2月にTJMレコーズからデビューを果たした。ディストラクションズのレパートリーはいずれも愛をテーマに扱っており、さらには“失望や憎しみ”をもインクルードするものだった。一方で、トニー・ウィルソンは、1966年頃の米テキサス州オースティンのサイケデリック文化を継承するグループとして、彼らを高く評価していた。手の込んだギター・ポップをありがちなジャケットに包んだこのシングルは、見た目もサウンドもファクトリーの作品とはかけ離れていたが、ポール・モーリー(グレイト・ポップとは何か、少しでもわかっている人なら、この傑作が演奏されれば必ずその前で感極まることだろう!)や、ジョン・サヴェージ(世界で最も完ぺきな若者のクラブバンドだ!)といった熱烈な支持者からは高い評価のレビューを獲得。それから数週間の内にアイランド・レコードと契約し、翌年にはアルバム『Nobody’s Perfect』をリリース。しかし、メインストリームでの成功にはありつけず、1981年には小さなインディーズ・レーベルへと戻り、同年解散した。


7. JOY DIVISION「Transmission」

JOY DIVISION「Transmission」

『Unknown Pleasures』の3ヶ月後にレコ-ディングされたナンバー。ハネットの手によるカミナリのようなサウンドは、まさに驚くべきものだった。しかし、翌年に12インチのシングルとしてリリースされるまで、お蔵入りの状態に。スティーヴ・モリスはこう回想する。「僕はずっとこの『Transmission』はシングル化されると思っていたし、そのためにアルバムから外されたと思っていたんだ。唯一の問題は、B面に何を入れるかだった。『Novelty』にするっていうのは、ロブのアイデアだったと思うよ。僕らとしては、ちょっと古いんじゃないかって、その時は思っていたけどね」。オリジナルの7インチは、バンドがバズコックスのサポートとして1ヶ月間にわたり行なったUKツアーの最中にリリースされた。正真正銘のヒットを願っていたファクトリーは、BBCラジオ1のDJたちが“ダンス、ダンス、ダンス・トゥ・ザ・レディオ”と繰り返される歌詞に共感してくれるのではないかと予想。ハネットの反対を押し切り、ウィルソンはDinDiscと連携してラジオへの売り込み屋を雇うほどの熱の入れようだった。しかし、初動セールスはたったの3000枚。これはインディーズの基準でもってさえも、がっかりするような数字だった。


8. THE DURUTTI COLUMN 「Sketch For Summer」

THE DURUTTI COLUMN 「Sketch For Summer」

ザ・ドゥルッティ・コラム初のアルバム『The Return Of The Durutti Column』は、1979年8月にカーゴ・スタジオにて3日間で録音された。その内容は、ヴィニ・ライリーのおなじみのレスポール・ギターと、その裏にリズム1つとバックトラック1つだけといった、意図的に最小限に抑えられたものだった。その成果は完全に具現化され、まったくもってアンビエントで独創的な音楽となった。ヴィニはSounds誌に対してこう語っている。「マーティンと僕は、最初から互いに何かを感じたわけじゃなかった。でも、1つのチームとして仕事をしていくうちに、最終的には彼のことが大好きになったんだ。このアルバムでは、彼は機械のつまみをいじりまわしたり、シンセサイザーでドラムの音色を作ったり、とにかくいろいろやってくれたよ。自ら進んでやったりもしてたね。この『Sketch For Summer』は、スタジオで作ったんだ。こういう鳥の鳴き声も、彼がどうにかしてシンセサイザーで作ってくれたからね」。一方、NME誌に対して、ヴィニはこう明かしている。「マーティンはエコーを再生して、シンセザイザーでリズムのパターンを見つけるんだ。僕は彼に20曲を渡して、彼がその中からうまく作れそうなものを選んだのさ。僕は曲を演奏するところから商品として形になるまで、このアルバムを本当に聴いてないんだよ」。ちなみに、“Fact14”としてリリースされたアルバム『The Return Of The Durutti Column』の初回盤は、研磨用の紙ヤスリをジャケットにあしらった、悪名高き一品でもある。


9. X-O-DUS「English Black Boys」

X-O-DUS「English Black Boys」

ラッセル・クラブの常連客だったX-O-Dus(またはExodus)のメンバーたちは、いずれもマンチェスターのハルムおよびモス・サイド出身。 1979年6月、彼らはカーゴ・スタジオにて、この“レイニー・シティ・レゲエ”と呼ばれる楽曲を、AB両面にわたってレコーディングした。当時のメンバーは、ハニー(ヴォーカル)、レディー(ドラム)、トレヴァー(ベース)、デイヴ(ギター)、リッキー(ギター)、ジョニー(キーボード)、ハービー(サックス)、ゲイル(ヴォーカル)、そしてスピーディー(パーカッション)。賢明にも、シングルのミキシングは、ジャネット・ケイのヒット曲「Silly Games」から、ザ・トップ・グループまで、幅広く手掛けていた、ダブ・プロデューサーのデニス“ブラックベアード”ボヴェルに任せるべきとの決断が下された。しかし、ボヴェルはザ・スリッツの『Cut』など、別のプロジェクトで忙しく、リリースは翌年までずれこんだ。X-O-Dusはリー・フェスティバル(のうち“Zoo Meets Factory Halfway”と題されたイベント)や、ムーンライトのショーケースでパフォーマンスを披露。しかし、Fact11とナンバリングされたこの「English Black Boys」は、彼らがファクトリーからリリースした唯一の作品となり、またレーベル側にとっても、唯一のレゲエ作品となった。このボックスセットには、編集された形で収録されている。


10. JOY DIVISION「Love Will Tear Us Apart」

JOY DIVISION「Love Will Tear Us Apart」

今や世代を超えたアンセムとして知られる名曲「Love Will Tear Us Apart」。もともと1979年の秋に書かれたナンバーで、同年11月、バンドにとって2度目の“BBCジョン・ピール・セッション”で、初めて多くの人の耳に届くこととなった。その主要なメロディーの1つは、マンチェスター・ミュージシャンズ・コレクティヴを構成する主力バンド、マンチェスター・メコンから(許可を得たうえで)拝借したもの。このシングル・バージョンは、1980年1月にオールドハムにあるペニン・スタジオにて、ハネットのプロデュースで制作された。ちなみに、12インチ盤のジャケットのイメージ(墓石)が決定したのは、(1980年)5月18日にイアン・カーティスが悲劇的な死を迎えるよりも前のことだった。同作品は6月28日にリリース。当時イギリスにおいてもっとも影響力のある全国放送の音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』で、映像が流れなかったことを問題視する声も上がってはいたものの、結果的にイギリスの国内シングル・チャートの13位まで上り詰める結果に。しかし、カーティスを失ったことで、残されたバンドのメンバーは、この真っ当とも言えるチャートでの成功にも心動かされることはなかった。「『Love Will Tear Us Apart」がヒットしていることに、たいして興奮はしなかった。ただもうイアンのせいさ」とフック。「そんなことはどうでもよかった。何の意味もなかったんだ。何に対しても感覚がすっかり麻痺していて、右から左へと抜けていくだけだった。僕らはただそれを無視して、現実を生き続けるしかなかったんだ」


11. A CERTAIN RATIO 「Shack Up」

ブリュッセルを拠点としたファクトリーの妹分レーベル、ファクトリー・ベネルクスのデビュー作は、ア・サーティン・レシオによるミニマルでファンクなクラシック。この作品は、プレストウィッチにあるグレイヴヤード・スタジオにて、5月にわずか35ポンドで全8曲のレコーディングが行なわれた。「Shack Up」はもともと、1975年にワシントンDCに拠点を置くバンド、バンバラによってレコーディングされたもので、北部のソウルやダンス・クラブを訪れたことを通して、サイモン・トッピングの耳に届いた。シックなブノワ・エンベールのジャケットに収納されたこのACRのセカンド・シングルは、瞬く間に9000枚以上もの売上げを記録。バンドをグレイス・ジョーンズとのレコーディングへと導き、さらにはアンティリズ/アイランド・レーベルとの契約も検討された(しかしこれを断る)。「Shack Up」はFac4の12インチEPとして、1981年1月にはアメリカでもリリース。今なおポスト・ファンクのマスト・アイテムといえる作品。


12. SECTION 25「Girls Don’t Count」

SECTION 25「Girls Don’t Count」

精神保健法の条項にちなんでその名が付けられたブラックプール出身の3人組、セクション25。メンバーは、ラリーとヴィンのキャシディ兄弟(ベース&ドラム)と、ギタリストのポール・ウィギン。1979年7月に、ジョイ・ディヴィジョンおよびOMDと共演。9月には、カーティスとグレットンをプロデューサーに迎え、カーゴ・スタジオにてレコ-ディング・セッションを自費で行なうという原始的なスタイルで作品を制作。彼らの3曲入りシングルのデザインを手掛けたのは、ピーター・サヴィルとベン・ケリー。研磨用紙ヤスリを使った風変わりジャケットの構造のため(機械生産が不可能)、聴覚障害者のワークショップにて手動で組み立てられることに。結局、数ヶ月も制作が遅れることになってしまったとか。それでもセクション25は、その後一貫してファクトリーから作品を出し続けた。「紙ヤスリは、おそらく普通に折り目をつけて、折って、のりづけするような機械では扱えなかったんだろうね」とサヴィル。「リリースが遅れたっていうけど…つまり、それって物の見方なんだよね。いったい何に遅れたっていうわけ?」。この12インチ盤は後に、優れたサウンドと共にリリースされている。


13. CRAWLING CHAOS「Sex Machine」

CRAWLING CHAOS「Sex Machine」

タインサイド(イギリス北部の大都市圏)の悪ふざけ集団、クローリング・カオスは、ウィルソンのテレビのコネを通じてファクトリーにやってきた。レーベルからは“ヘヴィでモダン”だと評され、さらに(ジャケットをデザインした)ジョン・サヴェージからは“パンク版ホークウインド(イギリスのサイケデリック・ロック・バンド)”と称された。彼らを気に入ったディレクターはファクトリー内ではウィルソンだけだったが、リー・フェスティバルや、ムーンライト・ショーケースなどに出演。ムーンライトのステージに関しては、アダム・スウィーティングがNME誌に「彼らの演奏は実に最悪なものだった。それも、(ロス・)マックウィターに電話したら、きっと彼の(ギネス)ブックに喜んで迎え入れてもらえるほど、長々とやっていたんだ。ミキシング・デスクの奴は『イブニング・スタンダード』紙を読んでいたし、僕の隣にいた人間も、寝る前に僕に時間を尋ねてきたんだ。こんなゴミなんかを必要としている人間は、おそらくすでに死んでるんじゃないの」と書いたほど。彼らは翌年、ファクトリー・ベネルクスからアルバム『The Gas Chair』をリリースし、ほかのレーベルでも3枚ほど出している。彼らの後期の作品のほとんどは、Fac17よりも洗練されているようだ。


14. A CERTAIN RATIO「Flight」

A CERTAIN RATIO「Flight」

催眠効果のある、シュールなファンク・ナンバー「Flight」およびそのカップリング・ナンバーで、ACRはその力量の高さを披露。ジョイ・ディヴィジョンと肩を並べるほどの逸材として注目を集めた同シングル。実際、「Flight」はすでに『The Graveyard & The Ballroom』に収録されていたため、リード・トラックにすることは長きにわたって議論が交わされていたものの、プロデューサーのハネットは「Love Will Tear Us Apart」よりも「Flight」の作業にさらなる時間を費やしたと言われている。しかし残念なことに、バンドとハネットは、ニューヨークでレコーディングしたデビュー・アルバム『To Each…』にて、優れたサウンドを再びとらえることに失敗。ACRはその後のセッションにて、ハネットを拒絶したファクトリー初のバンドに。


15. THE NAMES「Nightshift」

野心あふれるブリュッセルのニュー・ウェーヴ・バンド、ザ・ネームズは、1979年にWEAベルギーよりシングルをリリースしており、そのうち1枚がプラン・Kのロブ・グレットンの手に渡っていた。イギリスのレーベルと契約したがっていたザ・ネームズは、ハネットとのレコーディングというフィクション・レコーズからの好意的なオファーを却下。神秘的で美しい「Nightshift」とそのB面曲は、洗練されたメロディーと油断のないパワーを兼ね備えており、いずれもヒットの可能性を秘めていた。しかし、このマイケル・ソルディニア率いるグループもまた、セールス的には不発に。その平凡すぎる名前と、OMDよりもさらにクールさを欠いたイメージもその要因ではあるが…。結局、流通業者のピナクルが、ファクトリーはレコードをチャートに送り込むことのできないレーベルだと気付かされる結果に。なお、ハネットはファクトリーとの決裂後もバンドの関係は続け、ファクトリー・ベネルクスとその親レーベルであるル・ディスクス・デュ・クレプスキュールで、2枚のシングルと1枚のアルバムを共に制作している。


16. NEW ORDER 「Ceremony」

NEW ORDER 「Ceremony」

ニュー・オーダーの1stシングルは「Ceremony」と「In A Lonely Place」で構成されている。両曲とも3人グループとして1980年10月に(アメリカのニュージャージー州にある)イースト・オレンジにあるEARSでレコーディングが行なわれたもので、ジョイ・ディヴィジョンとして書かれた最後の曲でもある。いずれの曲もとびきりの名曲で、「Ceremony」は非常に澄んだギター・アンセム、一方の「In A Lonely Place」は、ジョイ・ディヴィジョンの2ndアルバム『Closer』のB面の流れを汲む、壮大なキーボードをベースとした嘆きのナンバーとなっている。両曲とも(バーナード・)サムナーがリード・ヴォーカルを務めており、その繊細なヴォーカルが混沌としたリヴァーブの中で抑えめにミックスされている。半年後には、ジリアン・ギルバートが参加してよりクリアになった「Ceremony」のミックスがリリースされたが、今回ここにも収録されている恍惚としたオリジナルの方がより多くのファンに好まれているようだ。ファクトリーは大量のオンエアとビッグ・ヒットを期待していたが、それは失望に…。シングル・チャートでは3月中旬の34位が最高だった。


17. MINNY POPS「Dolphin’s Spurt」

MINNY POPS「Dolphin’s Spurt」

フロントマンのウォーリー・ヴァン・ミデンドープが1978年の終わりにアムステルダムにてアート・プロジェクトの1つとして結成したミニー・ポップスは、自身のレーベルPlurexより、ミュート・レコード(1978年創設のイギリスのインディ・レーベル)の作品を彷彿とさせる数枚のエレクトロニック・シングルと、1枚のアルバムをリリース。1980年1月にオランダでジョイ・ディヴィジョンをサポートした後、8月にハネットと「Dolphin’s Spurt」の再レコーディングを慣行。「彼(ハネット)は僕らのほかにも、ストロベリー・スタジオでザ・ネームズとも一緒に仕事をしていたんだ」とウォーリーは当時を振り返る。「彼は2つのスタジオを行ったり来たりしていた。僕らの方にはクリス・ネーグルというエンジニアがいたんだけれど、マーティン(・ハネット)がアドバイスだか何かを僕らにくれたかどうかは覚えていないんだ。彼について覚えてることといったら、たいていカウチか床でマリファナをキメていたことと、何テイクも録音させられたことかな」。マーティン・アトキンスによってデザインされたジャケットは、オランダの電子技術の巨大企業、フィリップスの企業イメージを痛烈に風刺したもの。ウィルソンは、ミニー・ポップスとザ・ネームズという、ヨーロッパ大陸から来た2つの最高の新人バンドをファクトリーが抱えていると評した。より正確に言えば、ミニー・ポップスとザ・ネームズは、ウィルソンが聴いたことのある唯一のヨーロッパ大陸出身の新人バンドだったわけだが。ミニー・ポップスはファクトリー・ベネルクスからあと数枚のレコードを録音し、さらにファクトリーでもStreetlife名義で2枚のエレクトロ・シングルをレコーディングしている。


18. JOHN DOWIE「It’s Hard To Be An Egg」

JOHN DOWIE「It’s Hard To Be An Egg」

ミュージシャン兼コメディアンのジョン・ドウイは、Fac2の片面に楽曲を提供しており、さらにアクラム・ホールやムーンライトのロンドンでのショーケースなど、ファクトリーのライヴにも数々登場している。このシングルは、実際に発売される1年半前からリリースが告知されており、レコーディングはハネットとスティーヴ・ホプキンス(マンチェスターで結成されたロックバンド、The Invisible Girlsとしても知られている)と共に、ストロベリー・スタジオで行なわれた。「ミックスと楽曲の大半は、僕がロンドンに戻った後で作られたんだ。まるで僕は死んだかのような扱いだったね」と、当時を振り返ってジョークを飛ばすドウイ。「トリビュートの裏返しみたいなものかな?」。パッケージング(マーティン・アトキンスによるもの)は、タイトルを視覚的にもじった手の込んだもので、ジャケットには白のビニールと黄色の黄身があしらわれ、ポリ塩化ビニール製のパッケージ全体が白い羽で飾られている。白い羽はアラン・エラスムスが地元の市場で調達したもの。これが手でのりづけされているのだ。この奇抜なパッケージは、シュールなコメディがアート・オブジェクトに変貌を遂げたとして、評価は好意的なものだった。しかし、ファクトリーからの“BBC Radio 2への初の大規模な攻撃”は不発に終わり、セールスも振るわなかった。


19. CRISPY AMBULANCE「Deaf」

CRISPY AMBULANCE「Deaf」

1980年4月にすでに7インチ・シングルをリリースしている4人組バンドのクリスピー・アンビュランス。彼らにとって2枚目となったこの7インチ盤は、同年7月にグレーヴヤードにて、2日間で録音されたもの。セッションの途中で、ロブ・グレットンがファクトリーからリリースすることを提案し、クリスピーズはレーベル内で初めてグレットンがA&Rを担当するバンドとなった。ほぼ同時期に、アラン・ヘンプソールはニュー・オーダーでのヴォーカルをオファーされていたが、彼は自分のバンドに残ることを選択。グレットンは彼らの音楽を気に入っていたが、ウィルソンはそれほどでもなく、シュールなバンド名をひどく嫌っていた。「トニーは後に僕に向かって、“クリスピー・アンビュランス”ってのはレーベル内でも最悪のバンド名だと思ってたと打ち明けたよ」とヘンプソール。「彼がシック・ピジョンとサインするまでは、実際にそうだったね」。バンドはその後、ファクトリー・ベネルクスより、革新的かつ優れた作品を次々とリリースしていく。


20. SECTION 25「Dirty Disco」

SECTION 25「Dirty Disco」

セクション25の1stアルバムは、1981年2月にブリタニア・ロウでレコーディングが行なわれた。作品の持つ現実離れした雰囲気をもってすれば、ピンク・フロイドが所有していたこのスタジオでのレコーディングに彼らが踏み切った理由も十分納得がいくというものだ。ラリーは当時をこう回想する。「我々は6、7ほどの完成曲に取り掛かる一方で、ほかの楽曲はより即興で作り上げていったんだ。僕は使用料の高いスタジオで、安っぽいベースを弾いていたのさ。ブリタニア・ロウはめちゃくちゃ最高なところで、朝にはサンドウィッチを出してくれるようなスタッフたちから、とても良くしてもらっていたよ。ある朝なんて、デイヴ・ギルモアが、機材をいくつかピックアップするのに立ち寄ったんだ。ピンク・フロイドがドイツで『The Wall』を演奏している時だったね。もちろん僕らの仕事がはかどっているのか聞くために立ち寄ったわけではないんだけどさ」。サヴィルの手掛けたポシェットタイプのジャケット・デザインは、目を見張るほどすばらしいものだったが、生産コストは破滅的に高くついた。サヴィルはこう語っている。「ラリーから、すごく魅力的で簡潔な説明を受けたんだ。確か彼は、かなりヨーロッピアン的で、でもサイケデリックで、それでいて東洋の影響もいくらかあるようなものを望んでいたと記憶してるよ。それを僕なりに解釈したってわけさ」


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商品情報:
FACTORY RECORDS Communications 1978-92
品番 : 2564-69379

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