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WARNER BROTHERS 物語
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WARNER BROTHERS 物語

ごく初期のレコード内袋の表面ワーナー・ブラザーズ・レコードはその名前のとおりワーナー・ブラザーズ映画が設立したレコード部門である。そのワーナー・ブラザーズ映画の歴史は1918年にジャック、アルバート、ハリー、サミュエルのワーナー兄弟が興したフィルム・スタジオにさかのぼる。5年後には映画の製作と配給を合体して「ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズ」となりその後今日に至るまで世界最大の映画会社の名をほしいままにしていることは御存知のとおり。

40年代末、ライバル映画会社であるMGMがレコード事業を開始、同じく57年パラマウントが米国テレビ3大ネットのひとつABCと共同でレコード部門、ABCパラマウントを設立したことからワーナーもレコード事業に参入すべしの意見が浮上した。特にワーナー映画専属の俳優、タブ・ハンターが1957年にドット・レコードから出した「ヤング・ラヴ」が全米ナンバー・ワンになったことがワーナー映画の首脳陣を刺激した。自分たちが投資したおかげで人気の出た俳優が関係のないレコード会社でナンバー・ワン・シングルを出している!
なぜか? 答えは簡単。ワーナーにはレコード部門がなかったのだ。

1958年3月19日ワーナー・ブラザーズ・レコードは誕生した。オフィスはロサンジェルス北部の郊外バーバンクのワーナー大通り3701番地に置いた。巨大なワーナー・スタジオに隣接していた。ワーナー・ブラザーズ・レコードのごく初期のリリースはサウンドトラック、ポップ、軽いジャズ、フォーク、語りのレコードなど、大人向けのレコードばかりで、いわゆるトップ40の世界からは無縁だったが、翌年からテレビ映画で十代に人気の俳優に積極的に歌わせ、当時巨大化の兆候が見え始めたティーンのマーケットに徐々に入りこんでいった。『サンセット77』のエド“クーキー”バーンズの「クーキー、クーキー」、ロジャー・スミスの「ビーチ・タイム」、『ハワイアン・アイ』のコニー・スティーヴンスの「シックスティーン・リーズンズ」などはその成功例だ。

1960年ワーナー・ブラザーズ・レコードは音楽産業初のミリオン・ダラーの移籍金(当時日本円で3億6千万円)を積んで人気絶頂のエヴァリー・ブラザーズと10年間の長期契約を結んだ。同年4月この類まれなるハーモニーが魅力の若い兄弟は移籍後初シングル「キャッシーズ・クラウン」を発売、見事全米シングル・チャートのトップに上りつめ、ワーナー・ブラザーズ・レコードに初のナンバーワン・ヒットをもたらした。ちなみに同年日本コロンビアがライセンスを受けワーナー・ブラザーズの音源を日本の市場に紹介し始めている。その後約2年間のワーナーのビジネスはまさにこのエヴァリー・ブラザーズを中心にまわっていたが62年後半さすがに息切れした。その危機を絶妙なタイミングで救ったのは当時東海岸から吹いてきた「フォーク・ムーヴメント」の中心的存在ピーター、ポール&マリーのフォーク・トリオだった。62年秋に出した「天使のハンマー」が初のトップ10シングルになるとファースト・アルバムも7週間1位を記録、63年にはオリジナルの「パフ」、盟友ボブ・ディランのカヴァー「風に吹かれて」がともに全米2位となりこのフォーク・トリオの人気は頂点に達した。同年ワーナーは60年にフランク・シナトラと共同出資で設立したリプリーズ・レコードをシナトラの持分を引き取り、100%ワーナー傘下に収めた。もともとシナトラとその仲間であるディーン・マーティン、サミー・デイヴィス・ジュニアらの受け皿として設立されたリプリーズだがその後ワーナー・グループに大きく貢献することになる。

1964年ビートルズを頂点とする「ブリティッシュ・インヴェージョン」はアメリカの音楽ビジネスを一変させた。各メージャー、インディーいりまじえて英国のタレントに群がった。その中ワーナーはビート・グループでなく女性シンガー、ペテュラ・クラークのライセンスを獲得した。彼女はアメリカのマーケットにうまくなじんで「恋のダウンタウン」を筆頭に20曲近いシングル・ヒットを放った。一方リプリーズはキンクスのライセンスを受け、ロック・マーケットに積極的に進出、その後ジミ・ヘンドリックスなども手がけた。

1967年、創業10年目を迎えたこの中堅レコード会社は転換のときを迎えていた。時代はシングルからアルバム・マーケットに移行していた。歌い手、演奏家の個性、創造性とそれらをうまくブレンドし商品として完成できるプロデューサーの存在が大きくクローズ・アップされるようになっていた。その中、ワーナー・ブラザーズ・レコードはセヴン・アーツ・プロダクションに8千5百万ドルで売却され、ワーナー・セヴン・アーツ・レコードと名前を変えた。変わったのは名前だけではなかった。その新しい会社を舵取りしたモー・オースティンとジョー・スミスは来るべき時代に活躍できる若い才能を次々に発見、契約した。ハーパース・ビザールという5人組のコーラス・グループにはプロデューサーにレニー・ワロンカーを置き、当時は未知の存在であったランディ・ニューマン、リオン・ラッセル、ヴァン・ダイク・パークスらを登用した。バンドの中心メンバー、テッド・テンプルマンは後にワーナー・ブラザーズのプロデューサーとなり、ドゥービー・ブラザーズ、ヴァン・ヘイレンを筆頭に数多くのヒット作を世に出すことになる。ワーナー・セヴン・アーツは同年、アトランティックも買収しワーナー/リプリーズ/アトランティックという大きな共同体的レコード会社になっていた。

1969年ワーナー・セヴン・アーツはさらにキニー・ナショナル・カンパニーに買収され、72年にはエレクトラもキニーに買われワーナー/アトランティック/エレクトラで構成されるワーナー・コミュニケーションズという世界最大のレコード会社が誕生する。その間ワーナーはヴァン・モリソン、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、ランディ・ニューマン、ジェイムス・テイラー、アメリカ、グレイトフル・デッド、ディープ・パープル、アリス・クーパー、フェイセスなど数多くの新しいタレントを獲得、その後のワーナー・ブラザーズのイメージを確立する。その後も、レニー・ワロンカー、テッド・テンプルマン、ラス・タイトルマン、トミー・リピューマなど優秀なプロデューサーと個性的なアーティストの共同作業によってヒット商品が続出した。80年代に入っても、新しいものに鋭く反応するシーモア・スタインのサイアー・レーベルがワーナー・グループに加わり、そこからマドンナ、ラモーンズ、プリテンダーズ、トーキング・ヘッズら新型のスターが巣立っていった。

ごく初期のレコード外袋の表面1989年、ワーナー・コミュニケーションはタイムと合併しタイム・ワーナーとなった。90年代末再発専門レーベル、ライノがグループに加わった。2000年、新興のAOLと合併、AOL・タイム・ワーナーとなるも2004年その音楽部門が投資家グループによって買収され、ワーナー・ミュージック・グループを名乗り今日までに至っている。

ワーナー・ブラザーズ・レコードは現在でもグループの中心的存在として優れたアーティストと高品質の音楽コンテンツを創造している。あくまで「音」、「音楽の質」にこだわる姿勢は創業からのスローガンである”First Name In Sound“の精神がいまだに引き継がれているといっていいだろう。


アナログ盤の変還
「初期ステレオ・レコード用レーベル」
初期ステレオ・レコード用レーベル
「初期モノラル・レコード用レーベル」
初期モノラル・レコード用レーベル
「66年ころのレーベル
66年ころのレーベル

「67年ワーナー・セヴン・アーツになった 以降のレーベル」
67年ワーナー・セヴン・アーツになった
以降のレーベル

「70年中期ころのレーベル」
70年中期ころのレーベル

「70年代後期からのレーベル」
70年代後期からのレーベル

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