WB FIFTY YEARS
そのとき、ターンテーブルは動いた!
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WARNER BROTHERS 物語

ワーナー・ブラザーズ・レコード創立50周年記念企画『ワーナーさん いらっしゃい』では、ワーナー洋楽を支えた、音楽業界の重要人物が毎回登場! 海外アーティストならではの苦労や喜び、さらには内情や秘密のエピソードまで多いに語ってもらいます。
第二回目は、元ワーナー・パイオニア〜ワーナーミュージック・ジャパン 洋楽ディレクターの佐藤淳氏。80年代ワーナー洋楽の「若手」として従来の枠にとどまらない革命的ディレクターとして活躍、ヴァン・ヘイレン、a~ha,そして最も「扱いにくい」といわれた超個性派アーティスト、プリンスをブレイクさせたことで知られる佐藤氏が抱腹絶倒のここでしか聞けない、貴重な裏話をあらいざらい語ります。

聞き手=ワーナーミュージック・ジャパン 宮治淳一

ワーナーさん いらっしゃい
第二回 佐藤淳さん

宮治淳一:そういえば、プリンスの邦題ってどうしてたのですか? 数々の名タイトルがありますが。

佐藤淳:『パープル・レイン』の前に話は遡りますが、アルバム『1999』からの第四弾シングル「Let’s Pretend We’re Married」が、僕の代になってまたもやアメリカのチャートを駆け上がりまして。では日本でも『パープル・レイン』の前哨戦としてシングル・リリースしようと。どれどれプリンス前任者のT内先輩はこの曲にどんな邦題をつけたんだっけ、と調べてみると「夫婦のように」(爆笑)。まあ意味は間違っていないのですが。

宮治:でも佐藤さん担当以前に、アルバムはその邦題で出ちゃってるわけでしょう。



プリンス佐藤:そうです。演歌かよ!みたいな。で、「T内先輩、これって“めおと”のように…?」って聞いたら「“ふうふ”って読むんだよ!」だって(笑)。“夫婦(ふうふ)のように”でも相当スゴいよね(笑)。T内さんいわく「こんな変わった曲、まさかシングルになるとは思わなかったんだよ」と(笑)。で、さすがにシングル・リリースの際は、タイトルをこっそり変えさせていただきました。シカゴ「素直になれなくて(Hard To Say I’m Sorry)」で邦題大賞保持のT内先輩は、珍題大賞もかっさらって行ったのです。

宮治:あと、佐藤さん作の有名な邦題が。あの……。

佐藤:僕は邦題を積極的に付けるほうではなかったんですが、あの曲についてはいろいろ成り行きがありまして。まず、原題が「When Doves Cry」っていうタイトルでして、“ホウェン”ってカタカナで書くとなんか間抜けというか締まらない。あと、正直言って意味も伝わらなさそう。歌詞も深淵だし、今回に限っては邦題もアリかなと。だから、曲の内容とはまったく関係なく、曲調からインスパイアされたタイトルっていうものにチャレンジしてみようと。で、生まれたのが「ビートに抱かれて」(笑)。もう口に出して言うのも恥ずかしいんですけど、あんなにヒットしてしまい……。邦題ってヒットしなければ誰も気付かないけど、変にヒットしてしまうと妙に目立っちゃう。

宮治:プリンスの初来日について、印象深いエピソードとかってありますか?

佐藤:伊丹空港着だったんですね。で、当時の日本の空港って、何だか知らないけど、報道って書かれた腕章を付けていると中の取材用スペースにまったく制限なく入れちゃうんですよ。で、僕らレコード会社の人間は入れないでしょ。こっちは助けに行けないんですね。当時、『週刊文春』クラスでプリンスは有名でして、たくさんの報道陣がスタンバッてたんですね。僕が到着ロビーで待っていたら、バーってフラッシュが曇りガラスの向こうに見えて、あ、来たなと。

宮治:プリンスが搭乗してる便って、どうして分かっちゃったの?

佐藤:当時、伊丹空港って、便に乗っている人の氏名が、ご丁寧にも紙にプリントアウトされてロビーに置いてあったんです。見ると “ネルソン・P(プリンスの本名/Prince Rogers Nelson)”って(笑)。だから、報道陣に丸分かり。俺がこんなに長い間、プリンスになりきっているのに、彼らの方が先にプリンスに会いやがって……(笑)。恥ずかしながら、マスコミの人に「どんな人でした?」って聞きましたよ。そうしたら「ステッキ振り回してすごいゴキゲンだった」って。そうこうしてるうちに到着ロビーにプリンスがパッと出てきてすぐいなくなったの。で、記者さんたちが僕のところに寄ってきまして、「担当ディレクターとして何かコメント出してください」って言われて。あんたたちの方が先に会ってるだろうって(笑)。でも、実はプリンス、その段階でおかんむりだったらしく「もう帰る、こんなマスコミの規制ができない国にはいたくない。コンサートなんてしたくない!」ってね。「帰る!」が12時間くらい続いたかな。「そこを何とか」みたいな感じで招聘元さんと一緒に頼み込みましたよ。

宮治:それは、担当ディレクターとしては寿命が縮まる瞬間ですね。

佐藤:で、第2の事件が滞在先のホテルで起きました。今でこそ、大物の場合、お抱えのコックを連れて来ることは当たり前だと思うんですが、プリンスは先駆けて専用の料理人がいたワケですね。で、ホテルの調理場で、ミネアポリス料理を作らせろ、みたいな話になったんです。ホテルのコックさんって、良い意味ですごいプライドを持っていますよね。「どんな料理でも私どもがご提供します」とあくまでホテル側で調理したいという意向だったのです。で、僕たちがまたしても「そこを何とか」と(笑)。なかなか、埒が空かないから、じゃあ、ここは料理人同士会わせたら、お国は違えど同業者だから心が通じ合うかもしれないと思い、プリンスのシェフを連れてきたんですよ。で、「話し合ってください」と。ホテル側のシェフも、お客様の話を聞きましょうとなって「じゃあ、私のキッチンであなたはどんな特別料理を作るの?」。そしたら、プリンスのシェフがいきなり乾燥したトウモロコシを出して「ポップコーンだ」(爆笑)。ほんと、初日から想像を絶する事件の連続でした。

宮治:私も聞いてて、胃が痛くなりそう(笑)。

佐藤:でも、ショーは本当に良かったんですよ。本番以外のすべての苦痛は、この2時間の快楽のためにあるんだ、と真剣に思いました。ものスゴくいいワケです。職業柄ライヴ慣れしているコンサート関係者の皆さんも、ずっと舞台を見ているんですよ。僕はそんな光景は、プリンスのコンサートでしか見たことない(笑)。で、さらに奇跡が起こったんです。「パープル・レイン」のイントロがガーンって鳴った瞬間に、晴れていたはずなのに突然バーっと雨が降ってきたんですよ。ものすごいミラクル。「プリンス降臨」ってキャッチコピーを作りました。

宮治:a-haも佐藤さんですよね

佐藤:ワーナーブラザースのロンドン支部を敢えて設立し、ヨーロッパのアーティストを発掘しようっていうプロジェクトの成功例第1弾でした。本社の押しも強かったです。a-haのようなエレクトロポップって個人的趣味ではないのですが、自分の好みとはまったく関係のない音楽をビジネスのプロとして対象化する、みたいなことを学ぶ行程でした。「これ、お前に最初から任せるから」って師匠に言って頂いて光栄でしたね。「テイク・オン・ミー」は、アニメーションを織り込んだ、斬新なプロモーション・ビデオに尽きると思います。初めて見た時、映像の新しい時代が来たと感じました。

宮治:どんな展開を仕掛けられたんですか?

佐藤:今となっては当たり前なんですが、当時としてはまだまだ珍しかった、プロモーション来日っていうのをやったんです。来日っていったら、3年に1度のコンサート、みたいな時代に。業界は「コンサート以外で来日するって、どういうことです!? いっぱいお金かかるじゃないですか!」みたいなノリでしたね。プロモーション来日にかかる経費を、来日の露出で回収するという経験値が少なかったので結構な博打でした。a-ha坊担当としては、たくさんの人に会わせようということで、今でいうショーケースみたいなイベントを仕込みました。「抽選で100名様がa-haを観られる!会える!」みたいな。当時、デュラン・デュランやカジャグーグーとか、ちょっと路線は違うけどカルチャー・クラブとか、美形キラキラ・アイドルが隆盛を誇ってましたよね。うちのa-ha坊は、その中でも、ちょっとダサいというか、となりの兄ちゃんみたいなポジション。で、びっくりしたのが、掌にツバを「ペッ、ペッ」とつけて髪を整えてたこと(笑)。ノルウェー出身というのもあるのかな、とにかくあか抜けてはいないワケですよ。皮ジャンにジーンズで。でもそういう素朴なタイプが好みな女の子もいつの時代にもいるわけで。

宮治:日本でも相当ヒットしましたよね。

佐藤:はい、ありがたいことに。ラジオは1位、テレビも、映像の斬新さが手伝いプロモーション・ビデオが流れまくりの状態。宣伝の先輩たちに頑張ってもらい、45分1本みたいな取材をどんどんこなしていきました。ラジオ、テレビ、ライヴ、一般誌、音専誌……とプロモーションが展開できましたね。出版社さんと組んで写真集を作ったり。いろいろやってみました。

宮治:洋楽プロモーションの雛形の先駆けですね。

佐藤:バンド・メンバーは、ほぼ僕と同世代なんですよ。アーティストも新米、担当も新米、お互いガンバローみたいな感じで通じ合うところが多かったですね。で、そうだ、思い出した。あいつら意外にもドアーズのファンなんですよ。なので、アイドルっぽい設定の写真を撮るといちいち怒るんです。「あのさぁジュン、このポーズってジム・モリソン的にはアリなワケ?」みたいな(笑)。でも、世間はa-haを完全にアイドルだと思っていて、そのギャップをいかにケアしていくことが、僕の大事な役割。まぁ友達に近いからハッキリと「これは絶対にお前らの将来のためになるから、とにかくやっとけ」って断言(笑)。80年代の中盤は今ほど来日もなく、アーティストと話せる機会なんてほとんどなかったので、担当アーティストに直接自分の思いを伝えられるのがうれしくて仕方なかった。

宮治:a-haって日本では特に根強い人気ありましたよね。

佐藤:全米No.1になって日本でもヒットすると「そんなの当たり前じゃん。洋楽ディレクターって何もしなくてもアメリカ頼みでいいよなあ」って言われるんですけど、a-ha坊に関しては、彼らがアメリカでシングルヒットしなくなっても、日本独自のファンが付いてくれたので、そこそこのセールスをキープすることができたんです。無理矢理アイドル写真撮らせた効果かな(笑)。とはいえ、ヒットの経験って実は危険で。成功の記憶って実は失敗の記憶より罪深いと思うんですよ。一度鮮烈な成功を体験すると、どうしても同じ方法を繰り返したがるんですよね、人って。佐藤淳は個人的にアイドル・ポップスが好きだったわけではないんですけど、a-haの成功とともに同じ方法論でヒットが生まれるんだと思い込んでしまい、誰も覚えていないと思うんですけど、トミー・ペイジやタイムスTWOというアーティストのアルバムをa-haで培った手法で何とかしようとしたのですね。しかし、根拠のないところに同じ作戦を無理矢理植えても上手くいかず……。成功すると作戦が単調になっちゃう。

スタッフ:トミー・ペイジはワーナーのA&R をやってるみたいです。僕、2年前に会ったんですが、第一声が「ジュン・サトーは元気か」って。

宮治:佐藤さんがペイジを一生懸命推してくれたっていう印象が残ってるんですよ。

佐藤:マドンナを発掘したサイヤー・レーベルのシーモア・スタイン社長から当時直接デスクにお電話を頂き、「トミーを押してくれてありがとう」なんて言ってもらいました。

宮治:最後にワーナー時代を振り返っていかがですか?

佐藤:名マネージャーのウエンディ・ディオさんに聞いたのですが、ワーナーブラザースのモー・オースティン会長は、会議中だろうと何だろうとマネージャーやアーティストからの電話には必ず出たそうです。その遥か末席に連なる僕も、アーティスト第一で仕事をしたつもりです。会社的には、生意気な僕を我慢強く育ててくれた師匠をはじめ、上司、先輩、同僚の濃い〜メンツ。レーベル的にも濃くて、一時はワーナー、エレクトラ、アトランティック、WEA、MCA、ゲフィンがひとつ屋根の下同居していました。泣く子も黙る80年代ワーナーパイオニア洋楽部に、末っ子として置いてもらったことは生涯の誇りです。あの超多忙で、一生懸命で、過剰で、馬鹿馬鹿しい日々を思い出すたびにニヤニヤし、同時に、今の自分は同じ熱気で仕事できてるだろうか、と自己査定する際の原点です。
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