Cut Chemistカット・ケミスト
Profile
「ファースト・アルバムにはいくらでも時間をかけられるけど、セカンド・アルバムには1年しかかけられないって話だよね」とカット・ケミストはおどけて言う。
彼はレコード・ハンターとして、これまで休むことなくその腕を磨いてきた(他のコレクターと違って、おそらく彼は自分の仕留めた獲物を壁にかけて自慢することはないだろうが)。こうして年月を重ねた彼は、ソロ・アルバムを作った。思いもよらない方法でサウンドを操ることで知られるDJという評判を超えた、高尚で変化に富んだアルバムを作り上げたのだ。
プロデューサーとしての技術を高めようと努力を続ける人気DJ、カット・ケミスト。ここ数年は、ビート以外のことについてもやり繰りしなければならないことが数多くあった。しかし、オゾマトリを脱退し、2004年暮れにはジュラシック5にも別れを告げた彼は、ようやく自分自身のプロジェクトに集中できるようになったのだ。
「ここまで時間がかかったのは、おそらくこれも一因だろう」とアルバムについて語るカット・ケミスト。「ここにいるのは自分だけだってことを自覚し直さなくちゃいけなかったんだ。自分以外に物事を解決する人間はいなかったからね」
反対意見を唱える人もいないため、さらに自由に音を作れるようになったカット・ケミストだが、サンプリングの使用については好き勝手とはいかず、使用許諾を求める日々は続いた。
ロサンゼルスの中心にあるアート系高校に通っていたカット・ケミスト。同校は、レオナルド・ディカプリオといった有名人も輩出している。この頃、彼はシルヴァーレイクの公園で開かれていたジャムでチャーリー・ツナとマーク7に出会った。2人は将来ジュラシック5のMCとなる人物である。3人はU.N.I.T.Y.コミッティー(1991年にカセット・デビュー、トゥパック・シャクールといったアーティスト達とショウも行った)というグループに属していた。翌年には、グッド・ライフ・カフェ(サウス・セントラルに歴史的な公園、ライマート・パーク付近にある健康志向のレストラン)で毎週開かれていたオープン・マイク・ナイトで、数多くの才能溢れるアーティストとステージを共にしていた。グッド・ライフ・カフェは、フリースタイル・フェロウシップやファーサイドといったアーティストのキャリア育成にも一役買っていた。そして、このレストランはジュラシック5の結成も促したのだ。U.N.I.T.Y.コミッティーの3人はレベルス・オヴ・リズムというグループと合体し、ジュラシック5が誕生したのである。カット・ケミスト初のオリジナル・プロダクションは、『Jurassic 5 EP』収録の「Lesson 6」。スタインスキ&ダブル・ディー(「Lesson 1」というレコードで80年代初頭に注目を集めたグループ)のサンプルをベースにした先駆的カットアップを生意気な調子で讃えたトラックだ。
そして、ジュラシック5結成から13年を経た今、新たに学校が始まった。最初のレッスンはこれだ:『The Audience’s Listening』をヒップホップ・アルバムと称するのは、まったく的外れな考えである、ということ。
「このアルバムは、世界のあらゆるテイストを反映していると思う。ブラジル、ロック、東欧の影響も入っているし、その他にも数々の要素が含まれてる」とカット・ケミスト。「そういうアルバムにしたかったんだ。‘俺は世界中を巡り、レコードを買ってるんだ!’っていう風合いを出したかったのさ」。このアルバムで、カット・ケミストは、お皿漁りに精を出すDJというルーツに立ち返っている。とはいえ、現在ではお皿漁りと言ってもレコード盤だけでなく、CDやデジタル・ファイルも含むのだが。
本人が言うところの“クラシックなカット・ケミスト”スタイル(「Motivational Speaker」や「The Audience Is Listening (Theme Song)」)の強い楽曲に挟まれて、新たなサウンドへの挑戦も伺える。クラフトワーク的な「Metrorail Thru Space」や、ブラジルでレコーディングされたギター色の強い「The Garden」等がそれである。また、ヒップホップも固く根を下ろしている。ヒムナルをフィーチャーした「What’s The Altitude」が一番の証拠となるだろう。1978年のL・ブラザースとハーキュロイズのバトル等、オールドスクール・ヒップホップのDJバトルを収録したカセット・テープは広く出回っているが、その雑音の入る篭った録音にインスパイアされて出来たのがこの曲だ。
「アルバム中のすべてが未踏の領域と言えるものだった。今まで経験のないことに挑戦してみたのさ。唯一やってみる価値があると思えること、それは探求なんだ」
彼はレコード・ハンターとして、これまで休むことなくその腕を磨いてきた(他のコレクターと違って、おそらく彼は自分の仕留めた獲物を壁にかけて自慢することはないだろうが)。こうして年月を重ねた彼は、ソロ・アルバムを作った。思いもよらない方法でサウンドを操ることで知られるDJという評判を超えた、高尚で変化に富んだアルバムを作り上げたのだ。
プロデューサーとしての技術を高めようと努力を続ける人気DJ、カット・ケミスト。ここ数年は、ビート以外のことについてもやり繰りしなければならないことが数多くあった。しかし、オゾマトリを脱退し、2004年暮れにはジュラシック5にも別れを告げた彼は、ようやく自分自身のプロジェクトに集中できるようになったのだ。
「ここまで時間がかかったのは、おそらくこれも一因だろう」とアルバムについて語るカット・ケミスト。「ここにいるのは自分だけだってことを自覚し直さなくちゃいけなかったんだ。自分以外に物事を解決する人間はいなかったからね」
反対意見を唱える人もいないため、さらに自由に音を作れるようになったカット・ケミストだが、サンプリングの使用については好き勝手とはいかず、使用許諾を求める日々は続いた。
ロサンゼルスの中心にあるアート系高校に通っていたカット・ケミスト。同校は、レオナルド・ディカプリオといった有名人も輩出している。この頃、彼はシルヴァーレイクの公園で開かれていたジャムでチャーリー・ツナとマーク7に出会った。2人は将来ジュラシック5のMCとなる人物である。3人はU.N.I.T.Y.コミッティー(1991年にカセット・デビュー、トゥパック・シャクールといったアーティスト達とショウも行った)というグループに属していた。翌年には、グッド・ライフ・カフェ(サウス・セントラルに歴史的な公園、ライマート・パーク付近にある健康志向のレストラン)で毎週開かれていたオープン・マイク・ナイトで、数多くの才能溢れるアーティストとステージを共にしていた。グッド・ライフ・カフェは、フリースタイル・フェロウシップやファーサイドといったアーティストのキャリア育成にも一役買っていた。そして、このレストランはジュラシック5の結成も促したのだ。U.N.I.T.Y.コミッティーの3人はレベルス・オヴ・リズムというグループと合体し、ジュラシック5が誕生したのである。カット・ケミスト初のオリジナル・プロダクションは、『Jurassic 5 EP』収録の「Lesson 6」。スタインスキ&ダブル・ディー(「Lesson 1」というレコードで80年代初頭に注目を集めたグループ)のサンプルをベースにした先駆的カットアップを生意気な調子で讃えたトラックだ。
そして、ジュラシック5結成から13年を経た今、新たに学校が始まった。最初のレッスンはこれだ:『The Audience’s Listening』をヒップホップ・アルバムと称するのは、まったく的外れな考えである、ということ。
「このアルバムは、世界のあらゆるテイストを反映していると思う。ブラジル、ロック、東欧の影響も入っているし、その他にも数々の要素が含まれてる」とカット・ケミスト。「そういうアルバムにしたかったんだ。‘俺は世界中を巡り、レコードを買ってるんだ!’っていう風合いを出したかったのさ」。このアルバムで、カット・ケミストは、お皿漁りに精を出すDJというルーツに立ち返っている。とはいえ、現在ではお皿漁りと言ってもレコード盤だけでなく、CDやデジタル・ファイルも含むのだが。
本人が言うところの“クラシックなカット・ケミスト”スタイル(「Motivational Speaker」や「The Audience Is Listening (Theme Song)」)の強い楽曲に挟まれて、新たなサウンドへの挑戦も伺える。クラフトワーク的な「Metrorail Thru Space」や、ブラジルでレコーディングされたギター色の強い「The Garden」等がそれである。また、ヒップホップも固く根を下ろしている。ヒムナルをフィーチャーした「What’s The Altitude」が一番の証拠となるだろう。1978年のL・ブラザースとハーキュロイズのバトル等、オールドスクール・ヒップホップのDJバトルを収録したカセット・テープは広く出回っているが、その雑音の入る篭った録音にインスパイアされて出来たのがこの曲だ。
「アルバム中のすべてが未踏の領域と言えるものだった。今まで経験のないことに挑戦してみたのさ。唯一やってみる価値があると思えること、それは探求なんだ」