Otis Reddingオーティス・レディング

Profile

1941年ジョージア州ドーソンで生まれる。ハスキーな声質と、パワー満点のヴォーカル・スタイルが特徴で、多くのヴォーカリストに影響を与えた。またソングライター、プロデューサー、ピアニストとしても多角的に才能を発揮している。

幼少時からプロを夢みていたというレディングは、リトル・リチャードが在籍していたアップセッターズのツアー・メンバーを経て19歳のときに初レコーディング。やがてジョニー・ジェンキンス&ザ・パイントッパーズのマネージャー兼運転手としてスタックス・スタジオを訪れた際、空き時間を利用して数曲をレコーディングさせてもらうことに成功。そのヴォーカルが評価され、スタックスの傍系レーベルであるヴォルトと契約したのだった。

かくしてオーティス・レディングは、1963年3月のファースト・シングル「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」でデビュー80万枚を売り上げるヒットとなった。以後も、「ペイン・イン・マイ・ハート」、ぐいぐいと聴き手を魅了する「セキュリティ」、ギタリストのスティーヴ・クロッパーとの共作によるアップ・ナンバー「ミスター・ピティフル」、1965年末に大ヒットした「お前をはなさない」、悲しみに満ちたヴォーカル表現が素晴らしい「マイ・ラヴァ-ズ・プレイヤー」、フックのフレーズが印象的な「ファ・ファ・ファ」、テッド・ルイスのカヴァー「トライ・ア・リトル・テンダネス」など、多くの名曲を生み出していった。

1967年にはヨーロッパ・ツアーを敢行、各地で熱狂の渦を巻き起こす。6月にはモンターレー・ポップ・フェスティヴァルに出演、多くの白人オーディエンスに唯一無比のブラック・エンタテイメントを披露し以後人気は急上昇する。

だがその半年後の1967年12月、飛行機事故によってあえなく世を去ってしまう。活動期間はわずか5年で、享年26歳。あまりにも早すぎる死だった。翌年の2月には死の3日前にレコーディングされたという「ドック・オブ・ザ・ベイ」がシングル・カットされてR&Bチャート3週、ポップ・チャート4週1位を記録。結果的にはこれが最大のヒット曲になった。

オーティス・レディングは死後45年経過した現在でも「キング・オブ・ソウル」としてゆるぎない地位を誇り、往年のファンだけでなく若い、新しいファンを魅了し続けている。

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