Steely Danスティーリー・ダン

Profile

ドナルド・フェイゲン(1948年・ニュージャージー出身)とウォルター・ベッカー(1950年・ニューヨーク出身)の2人が、1967年ニューヨークのバート・カレッジで運命的な出会いを果たし、結成されたグループ。当初はソングライターとして活動を始めるも、「歌ってくれる人がいない」との理由で、バンドを結成し、自らで演奏し始める。

1stアルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(1972年)より「ドゥ・イット・アゲイン」がいきなり全米6位、アルバムも全米17合間に作られた2ndアルバム『エクスタシー』(1973年)の売上は低迷。3rdアルバム『プレッツェル・ロジック』もツアーの合間をぬってのレコーディングとなるが、このあたりから、フェイゲンとカッツはレコードとライヴを別のものとして構築するようになり、レコーディングに一流のセッション・マンを多数起用するようになる。シングル「リキの電話番号」は、グループ最大のヒットとなる全米3位を記録。しかし、ライヴには殆ど興味を示さなくなったことで、彼らのもとからはメンバーが離れていってしまう。その中には、後期ドゥービー・ブラザーズを支えるジェフ・バクスターもいたことは有名。これにより、バンド存続の危機も噂されたものの、何と真の実力を発揮しはじめたのは、これ以降であった。

ライヴ活動から解放された2人は、じっくりとスタジオ・ワークに専念し4thアルバム『うそつきケイティ』(1975年)を発表。続く5アルバム『幻想の摩天楼』(1976年5月)で彼らの方法論が正しかったことを強力にアピール。東西の一流ミュージシャンを適材適所に配置し制作されたこのアルバムにより、究極の「ミュージシャンズ・ミュージシャン」と呼ばれるようになる。
そして1977年、名盤の誉れ高い『彩(エイジャ)』を発表。瞬く間に彼ら初のプラチナ・レコードとなり、1年もの間チャートに居座り続けることとなる大ヒットを記録。3年の歳月を経て発表された7枚目のアルバム『ガウチョ』からは「ヘイ・ナインティーン」が全米ベスト・テンに入るヒットを記録するも、それ以来活動を休止。
フェイゲンのソロ活動などを通じ、再び交流を始めた2人が再び「スティーリー・ダン」として活動を再開するのに13年の日を要することとなる。

しかしながら、ファンを驚かせたのは、彼らの復活は彼らが命を注いだスタジオ・レコーディングではなく、あれほど嫌っていたライヴ活動であったことだ。1993年から94年にかけて行われたライヴを収録したものが、この「アライヴ・イン・アメリカ」であり、それはやがて2000年に発表された8枚目のアルバム『トゥ・アゲインスト・ネイチャー』へと辿りつくこととなる。歌詞、メロディ、演奏、アレンジ、など全てにおいて、緻密と叡智を極め、全く新しい方法論でロックを進化させた彼らの伝説は、何ら変わることなく健在であることを証明した彼らは、2001年グラミー賞のアルバム・オブ・ジ・イヤーを受賞。
再びファンは、彼らの新作を期待できる喜びにあやかることができることとなった。

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